太田述正コラム#9191(2017.7.2)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その22)>(2017.10.16公開)

 「『古事記』や『日本書紀』は、10代崇神天皇のときに大物主神の祭祀が始まったと記している。
 その中の『古事記』の記事は、次のような内容になっている。
 「崇神天皇は疫病が広がって多くの者がなくなったことを嘆いて、神々を祭って神意を訪ねて疫病をしずめようとした。このとき大物主神が現われて『大田田根子(おおたたねこ)という者を探してきて、私を祭らせなさい』と語った。この神託にに従ったところ、疫病がようやくおさまった」

⇒これ、他文明では余り例がないことではないか、という気がして、まず、英語ウィキペディア等で「epidemic; god」で検索をかけたが不毛な結果に終わり、その可能性は高いと思ったものの、結論には至りませんでした。
 そこで、次に、疫病に関する邦語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%AB%E7%97%85
を読んだところ、以下のような記述・・出来が余りよくなく、直接の典拠も付されていませんが・・が出て来ました。↓
 「日本<では、>・・・古くは疫病の原因として、荒振る神・疫神(えきじん/やくしん、疫病神)・疫鬼・怨霊の仕業とか仏罰・神罰によるものであるという超自然的なものに原因を求める考え方が前近代においては広く行われ、神仏を鎮めるための加持祈祷や各種祭礼(鎮花祭・道饗祭・四角四境祭・鬼気祭・疫神祭・御霊会など)などが行われた。<一方、支那>では天地の気の乱れや陰陽不順による邪気・寒気・悪気が毛穴や口鼻を通じて体内に侵入して生じると考えられ、鍼灸や薬によって体内の陰陽のバランスを回復させることに主眼が置かれていた。」
 つまり、日本と支那の違いは、疫病が流行った時に、民のことを考えるかどうか、そして、神様に何とかしてくれとお願いするかどうか、にあるわけですが、これは、日本、と、概ね日本以外の世界、との違いでもある可能性が高い、と私は思った次第です。
 「[<日本で>平安時代中期に作られた辞書である]『倭名類聚抄』には“疫”の字の意味について「民が皆病むなり」とある」(上掲)ところ、「「殳」<は、>(シュ:「ほこ」の一種)」
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BD%B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%90%8D%E9%A1%9E%E8%81%9A%E6%8A%84 ([]内)
なのですから、「民が皆病むなりというのは、支那にはない、日本独特の感覚である、と言えそうなことが、この私の推測を補強するものではないでしょうか。(太田)

 これに対して『日本書紀』は、「疫病が広まったときに、大物主神が倭迹々日百襲姫<(前出)>に取り憑いて、崇神天皇に神託を下した」とする。
 『日本書紀」などには倭迹々日百襲姫は、崇神天皇の大叔母であったと記している。・・・
 『日本書紀』は、そのあとの出来事として、つぎのような物語を記している。
 「倭迹々日百襲姫は、三輪山の大物主神の妻になった。ところが神が毎晩姫を訪ねてくるが、日が昇る前に山に戻ってしまう。不思議に思った姫は、夫に『一度、お姿を見せてください』と頼んだ。すると夫は、・・・<翌朝、>美しい小さな蛇<の姿で現れた。>姫が驚きの声をあげると、神は怒って三輪山に帰ってしまい、二度と訪ねてこなかった。夫に去られた悲しみで姫は自殺し、人びとは姫を慕って箸墓(はしはか)という壮大な古墳をつくってそこに姫を葬った」
 いまでも三輪山を祭る大神神社の祭神は「蛇神様」「巳様(みいさま)」ともよばれるが、この話は三輪山の神が古くから「蛇の姿をした神」とされていたことを明確に示すものである。
 ・・・祭祀を担当する・・・倭迹々日百襲姫・・・と政治にあたる崇神天皇とがならび立つ形で、王家は朝廷を支配していたのであろう。
 纏向遺跡に築かれた桜井市箸墓古墳<(注54)>は、全長が278メートルもある最初の大型古墳である。

 (注54)「纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3

 その古墳はそれ以前に王家がつくった、纏向石塚古墳<(前出)>などの90メートル台の古墳よりはるかに大きい。
 大和朝廷の人びとにとっても大型古墳の出現は、画期的な出来事であった。
 そのため「最古の大型古墳は、王家の有力な巫女を葬ったものである」という伝承が、長く語り継がれたと考えられる。」(113〜115)

(続く)