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太田述正コラム#9181(2017.6.27)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その19)>(2017.10.11公開)

 「祖霊信仰は最初は、自分たちの祖霊を農耕神として祭るものであった。
 そのため集落のすべての人が農耕神を亡くなった父母や祖父母のような身近なものと感じていた。
 自分たちの祖霊のお告げを聞く集落の巫女の神託に従った結果が悪かった場合には、巫女が退き、別の女性が新たな巫女に立てられたのであろう。
 しかし、小国ができたあとは、巫女が小国の守り神から受けた神託は絶対的なものとされるようになった。
 神託を疑う多くの者が出たら、小国が分裂してしまうからである。
 そしてしだいに、「多くの祖霊が集まった集団の中に、祖霊の意見をまとめる霊魂がいる」という発想がつくられていった。
 そのような霊魂の世界の指導者は、特定の巫女だけを選んで神託を下すが、巫女以外の者に語りかけることはないとされた。
 このようにして高い権威をもつようになった巫女は、しだいに「神の妻」として敬われるようになった。
 さらに有力な巫女を、その没後に神として祭る習慣も生まれた。
 『魏志倭人伝』は、「卑弥呼は巨大な塚に葬られた」と伝えている。
 この塚は、卑弥呼を神として祭る場であったのであろう。

⇒武光は、何ら根拠、典拠を挙げることなく(一番最後のセンテンスを除いて)断定的に語っていますが、全面的にあたっている可能性も、部分的ないし全面的にあたっていない可能性も、あるといったところでしょう。(太田)

 卑弥呼の墓は、古墳で<(注47)>なくそれより古い弥生時代にあちこちで築かれた墳丘墓(土を盛ってつくった墓)<(注48)>の一つであったと考えてよい。」(100、102)

 (注47)「3世紀半ばから7世紀代にかけて日本で築造された・・・所在件数が最も多いのは兵庫県で16,577基にのぼる。以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、全国合計では161,560基となる(平成13年3月末 文化庁調べ)。・・・古墳には大小様々あり、その体積を計算すると、前方後円墳に限定しても約140万立方メートルの[応神天皇の陵<とされる>]誉田御廟山古墳や・・・仁徳天皇陵とされる・・・大仙陵古墳といった巨大なものから、約400立方メートルの小型のものまで差が大きい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A2%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%89%E7%94%B0%E5%BE%A1%E5%BB%9F%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 ([]内)
 (注48)「弥生時代の墓制は大きく三つの段階に分けられる。第一段階は集団墓・共同墓地であり、第二段階は集団墓の中に不均等が出てくるという段階であり、第三の段階は集団内の特定の人物あるいは特定なグループの墓地あるいは墓域が区画されるという段階である。その場合、墓域は普通、方形に区画されることが行われる。三つは段階であって時期ではないので、段階が同時にあらわれることが起きる。・・・
 遺体埋葬地に土で塚を築く墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、弥生時代前期から見られたが、比較的小規模であった。弥生後期になると墳丘の規模が一気に大きくな<るところ>、・・・墳丘墓の呼称を弥生後期の大規模なものに限るべきとする意見が、多数となりつつある。このような墳丘墓は、3世紀中葉過ぎに出現する前方後円墳などの古墳へと発展することになる。墳丘墓にはまだ地域性が見られたが、古墳は全国斉一的であり、大きな差異は見られなくなっている。このことは、3世紀中盤を画期として、九州から東日本にわたる統一的な政権が確立したことを示唆するという説が主流である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%A2%93%E5%88%B6

⇒日本列島での古墳の出現は3世紀半ばであるところ、卑弥呼の死去は「247年あるいは248年頃」、すなわち、3世紀半ば、とする説が有力
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
なので、武光の言うように、卑弥呼の墓が古墳ではなく墳丘墓であった、と考えてよいのかどうかは微妙です。(太田)

(続く)

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