太田述正コラム#9171(2017.6.22)
<改めて米独立革命について(第II部)(その3)>(2017.10.6公開)

 「米独立革命に関する大部分の諸本は、「米国の国家物語に焦点を当てる。…このアプローチは、隣接する諸帝国と原住の人々を、ちっぽけなプレヤー達、や、不可避的な米国の拡大に対する小さな諸障害、へと格下げするものだ」、と彼は記す。
 この巻の中では、著者は、米独立革命を、最も広範は文脈の中に置く。
 新世界における、互いに競争相手であるところの、欧州の諸帝国の諸闘争との関わりの中に置いただけでなく、原住の人々とアフリカ人奴隷達を、米独立革命においてより重要であった、いや、中心的であった、とするのだ。
 この独立革命を説明するところのものは、東部沿岸の諸税への抗議だけではない。
 「北アメリカにおける大英帝国を引っかき回した体制的(constitutional)危機に関し、<重要性において>半分を占めたところの、英議会賦課諸税への抵抗運動、と、」<重要性において>同等の<半分を占めたところの、>アパラチャ山脈の向こう側の西部における諸紛争、が、相互に関連付けられる(linked)必要がある、と著者は強く主張する。
 <このほか、>1780年代初にスペイン帝国内で起こったいくつかの小諸蜂起こそ米革命戦争の成行(course)に大きな影響を与えなかったかもしれないが、仏領の島であったサン・ドマング(Saint-Domingue)での1790年代の奴隷蜂起<(注2)(コラム#279、280、594、622、985、1530、3769、3775、3781、3797、3802、4028、5878、6973、7275、7788、7790、7792、8637)>は、間違いなく影響を与えた。

 (注2)現在のハイチにおける叛乱。第一次叛乱(指導者--トゥーサン・ルーヴェルチュール):1791〜1801年(1801年に第一共和国?)。第二次叛乱(指導者--ジャン=ジャック・デサリーヌ):1802〜1803年(1804年に第二共和国?)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%81%E9%9D%A9%E5%91%BD

 実際、著者が、この本のサブタイトルにおいて、終末点として1804年を選んだのは、南北アメリカ大陸においてハイチで第二共和国が出来たことを含めるためだったように見える。 
 そうは言っても、このアメリカの動乱は、極めて、凄惨で暴力的で、何よりも、その他の全ての諸革命を必然的に圧倒するに至ったところの、やはり、世界にとって極めて重大<な出来事>だった。

⇒ここはその通りなのですが、少々脱線を。
 17世紀から19世紀にかけて戦われた第二次英仏百年戦争の過程で、第一次大英帝国の一部が分離独立し、アングロサクソン世界が、相対的にまともな第二次大英帝国と、欧州文明によって汚染された相対的にいかれた米国とに分裂した、というだけのことであり、第二次英仏百年戦争に1815年に勝利した第二次大英帝国が欧米由来の、事実上最初の全球的覇権国となったところ、1945年からは、米国がその地位を(奪取的に)引き継いだ・・そして今世紀央までにはその地位を、東アジアの中共、恐らくは日本と連携した形での中共、に明け渡そうとしている・・というだけのことであり、米独立革命が「世界にとって極めて重大<な出来事>だった」ことは否定できないとしても、累次申し上げていることから推察いただけると思うのですが、ロシア革命よりも重大な、欧米に対するアジアの反撃の出発点となったところの、明治維新こそ、その約100年前に起こった米独立革命をはるかに凌駕する「世界にとって極めて重大<な出来事>」なのです。(太田)

 著者は、「通俗的な諸歴史書や諸映画」で通常描かれる、「良い、秩序だった、抑制的で成功裏に終わった」出来事では全くなかった、ということを示すことを本当に欲している。
 文脈を拡大することによって、米独立革命を非神聖化する、それについての通俗的諸神話を粉砕する、そして、汚らわしく血腥い真実(reality)を余りにも長く覆い隠してきたと彼が信じるところの、気高さ、威厳、そして、ヒロイズムのマントをはぎ取る、ことを、彼は狙っているのだ。
 それは確かに血腥かった。
 この戦争で、軍隊に入っていたうちの25,000人の米国人達が死んだが、これは、人口の1%であり、南北戦争を除き、我々の歴史の他のどの戦争よりも人口比的に多数の諸死だった。
 この戦争は8年間にわたって続いたが、これはヴェトナム戦争までは、我々の歴史で最も長い戦争であり、それは、西部諸地域を含め、この国の全ての諸部分に影響を与えた。
 それは、「諸分断だらけで暴力的にして破壊的な」内戦でもあった。
 「人口の約20%は大英帝国に忠誠であり続けた。
 これら、50万人の親英派達は、彼らの国王への傾倒によって大いなる苦労を味わった。
 愛郷者達・・著者は、独立革命の支持者達についてこの言葉を利用することを好む・・は、彼らに対し、脅し、タールを塗り、羽をくっつけ、そして、彼らの財産を没収した。
 「自由の名の下で、愛郷者達は、自由な言論を抑圧し、私信を自分達への批判者達を震え上がらせた・・・。愛郷者達は、自分達の新聞の自由しか信じていなかった」、と著者は記す。
 最終的には、少なくとも60,000人の親英派達が、この国から、大英帝国の他の諸ぶぶんへと逃げた。」(a)

(続く)