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太田述正コラム#9151(2017.6.12)
<改めて米独立革命について(第I部)(その2)>(2017.9.26公開)

 (2)ボストン時代

 「植民地の、最も有望な画家達が、欧州の芸術の諸首都の巨匠達のもとで学ぶことを急いだ時代において、コプリーは、田舎の(provincial)ボストンでぐずぐずしていた。
 彼は、ロンドンやローマで人々を振り返らせたところの、より威厳ある、歴史的かつ寓話的な諸絵画を評価するほど垢ぬけていない、<ボストンの>男達や女達の肖像画群を描いていたのだ。
 偉大な二人の画家達であるベンジャミン・ウエスト(Benjamin West)<(注4)>とジョシュア・レノルズ(Joshua Reynolds)<(注5)(コラム#4808、8162)>は、ウエストが記したように、「言葉では伝えることができない」ものを学ぶために<イギリスに>やってくるよう、彼に懇請した。

 (注4)1738〜1820年。「<英>領ペンシル<ヴェ>ニア植民地(現在のペンシル<ヴェ>ニア州・・・)で生まれる。・・・ほぼ独学で絵画を学んだ。・・・1760年にイタリアへ引っ越した。以降、色々なイタリアの画家の作品を写した。1763年に<イギリス>へ引っ越した。ジョージ3世に<英宮廷>・・・画家として雇われ・・・ロンドンで死んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%88
 (注5)1723〜92年。イギリスに生まれる。「教師<の>・・・父親から教育を受けた。1740年から1743年まで肖像画家・・・の元で修業した。・・・イタリアに学び、ラファエッロやミケランジェロなどの古典を熱心に研究した。・・・1768年にロイヤル・アカデミーが創設されるとその初代会長となり、実作のみならず絵画の理論家・教育者としても大きな役割を果たした。レノルズは、ラファエッロのような古典絵画の巨匠の様式(グランド・マナー)を重視し、聖人・神話・歴史上の事件などを扱った「歴史画」を絵画ジャンルの首位に置いた。肖像画の制作にあたってもモデルを宗教的・歴史的道具立てのなかで理想化して描いた。1784年に・・・主席宮廷画家とな<り、>」ロンドンで死んだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%BA

 しかし、イギリスは物価が高いし、コプリーは引っ込み思案だったので、何年にもわたって彼は<二人の>招待を謝絶し続けた。
 その代わり、ウエスト、レイノルズ、及び、その他の手紙による知己達、は、大西洋越しの郵便で、場当たり的でしばしば使い古された助言を送った。
 彼は、キャリアを発進させるのに極めて忙しく・・後に、「私はビーヴァーのように働かなければならない」と記している・・、大部分のボストンの男達よりも6年も遅く、31歳になるまで結婚しなかった。
 しかし、コプリーは概ね独学だったけれど、一人で世に出たわけではなかった。
 著者にとっては、彼の物語は、大部分の植民地人達が自分達の運命を、親戚達や隣人達でもって鋳造する時代における、個人の自立性の諸限界を暴露するものだ。
 夫達が彼らの妻達を法的に統制していた時代において、コプリーの人生の軌跡は、多かれ少なかれ、彼の妻、そして、とりわけ、彼の義理の親戚達によって、死が二人を別れさせるまで、大きく形作られることになったのだ。
 コプリーは、スザンナ・「サキー」・クラーク(Susanna “Sukey” Clarke)と1769年11月に結婚したが、これは、真の愛、及び、金銭的論理、による結合だった。
 <但し、>この組み合わせに政治はからんではいなかった。
 <そもそも、>コプリーは、数か月前には自由の息子達(Sons of Liberty)<(注6)>と一緒に行進したというのに、英議会の新諸税よりも欧州の批評家達が彼の絵を好んだかどうかの方により関心があったように見えた。

 (注6)「<米>独立戦争以前における北米13植民地の愛国急進派の通称であり、やがてこの名を冠した市民組織が各地で結成され、独立革命に一定の役割を果たした。特にサミュエル・アダムズが中心となったボストンの組織は、1773年にボストン茶会事件を引き起こした。・・・
 <この名称の起こりは次の通りだ。>
 1765年2月、本国の議会で開かれた印紙法に関する討議のなかで・・・印紙法を推進するチャールズ・タウンゼンドが、「この子供達は、我らの世話によって入植し、我らの寛容さによって増長し……そして我らの武力によって守られている」と演説したのに対し、植民地寄りの議員アイザック・バリは、「諸君の世話によって入植した? とんでもない! 諸君の圧政がかれらをアメリカに入植せしめたのである」と切り返し、その演説の中で、「このような振る舞いに幾度も及ぶ人々への反発心から、かれら自由の息子達は自らの血を流してきた」と指摘、新法(印紙法)への抵抗を予言した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%AE%E6%81%AF%E5%AD%90%E9%81%94

 本能的に注意深く、憑りつかれたように頭の中が整理されていた彼は、最後の布切れとパステルの使い残しが全て片付けられ、自分のパレットの上で全ての色が完全に混ぜ合わされていない限り、絵を描き始めることはなかった。
 彼の同時代人達の多くと同様、彼は自由と秩序を恋い焦がれた。
 煙が充満した革命の雄叫びは、<彼には>全く魅惑的ではなかった。
 しかし、結婚はそれ自体の諸生き様を辿ることとなり、政治的に不可知論者であった新婚の二人は、すぐに、彼らの結合が、彼らが回避しようと熱望していたところの、英帝国の危機によって規定されてしまったことを見出した、と著者は記す。
 サキーの父親は、ボストンで最も金持ちの商人達の一人だったが、1773年末に到着しようとしていた、茶の積み荷の一部を売る契約を既にしていた。
 彼は、それをイギリスに戻そうとは欲しなかったのだ。
 群衆の一人が彼の倉庫を襲い、もう一人は彼の自宅を襲った。
 その一か月後に、もう一つの群衆が、ボストン港湾にこの茶を投げ捨て、自分達が「人民」の有徳の防衛者であると自認した時までに、サキーの父親は、保護を受けるために英軍の駐屯地に逃げ込んでいた。」(A)

(続く)

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