太田述正コラム#9147(2017.6.10)
<改めて米独立革命について(第I部)(その1)>(2017.9.24公開)

1 始めに

 表記に関する、どちらも昨年出版された、二冊の、それぞれ、微視的歴史書、及び、巨視的歴史書、たる本である、ジェーン・カメンスキー(Jane Kamensky)の『色における革命--ジョン・シングルトン・コプリーの世界(A Revolution in Color: The World of John Singleton Copley)』、及び、アラン・テイラー(Alan Taylor)の『アメリカ諸革命--ある大陸の歴史1750〜1804)(American Revolutions: A Continental History, 1750〜1804)』、を取り上げた書評
A:https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2016/12/the-accidental-patriots/505835/
(6月5日アクセス)に遭遇したことから、この二冊の本を、それぞれ、第I部、第II部、として、シリーズで取り上げることにしました。
 それでは、さっそく、第I部を始めましょう。

α:https://www.thetimes.co.uk/article/a-revolution-in-color-the-world-of-john-singleton-copley-by-jane-kamensky-w9tfqhtlm
β:https://www.nytimes.com/2016/12/02/books/review/of-arms-and-artists-paul-staiti-revolution-in-color-jane-kamensky.html?_r=0
(↑Paul Staiti ’OF ARMS AND ARTISTS--The American Revolution Through Painters’ Eyes’の書評を兼ねる。) 
γ:https://www.bostonglobe.com/arts/books/2016/09/29/look-tumultuous-revolution-era-through-life-john-singleton-copley/BS961F7icQLEQmBRVuSHxM/story.html

 なお、カミンスキーは、現在、ハーヴァード大歴史学教授であり、エール大卒、同大博士(歴史学)の女性です。
 また、今回取り上げる本は、昨年、Barbara and David Zalaznick Book Prize in American Historyを受賞しています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Jane_Kamensky

2 米独立革命と一画家

 (1)序

 「ジョン・シングルトン・コプリー<(注1)>のポール・リヴィア(Paul Revere)<(コラム#1756)>の肖像画<(注2)は有名だ。>」(β)

 (注1)1738〜1815年。画家。イギリス系アイルランド人の両親の下に恐らくはボストンで生まれ、1774年にイギリスに渡り、ロンドンで没した。
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Singleton_Copley
 (注2)https://www.google.co.jp/imgres?imgurl=https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6e/J_S_Copley_-_Paul_Revere.jpg/1200px-J_S_Copley_-_Paul_Revere.jpg&imgrefurl=https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E3%2583%259D%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25AB%25E3%2583%25BB%25E3%2583%25AA%25E3%2583%2593%25E3%2582%25A2&h=1449&w=1200&tbnid=oqeJjiW24zTsqM:&tbnh=160&tbnw=132&usg=__L42xjt1pHMOAMOge220qruSXEUw=&vet=10ahUKEwjngvr_7LDUAhUBNrwKHS8MAe4Q_B0IvgEwCg..i&docid=EdUa-9aNZny63M&itg=1&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjngvr_7LDUAhUBNrwKHS8MAe4Q_B0IvgEwCg

 「野心的であったコプリーは、自分の仕事のために生きたのであり、政治には殆ど関心がなかったが、独立に向けて訴えた活動家達よりも、<アメリカ(注3)の>典型的市民であったことだろう。」(γ)

 (注3)著者/書評子達は、「America」でもって、「英領北米植民地」と「米合衆国」の両方を表しているが、英領北米植民地を指す場合は、便宜上、「アメリカ」、米国を指す場合は「米国」と、このシリーズ(I、II)では表記することにする。

 「著者は、米国の独立によって、その世界が上下逆さまになったところの、人々のうちの一人に、彼女の凝視を集中させる。
 志のある、アメリカの芸術家達は、くじけそうになる諸障害・・手練れの教師、や、古や今様の大家達の、見本となる諸作品を収蔵する諸博物館、へのアクセス、の欠如・・に直面していた。・・・
 この苦境の解決法は、ロンドンに行くことだった。・・・
 但し、コプリーの場合は、著者が、独特の「慎重さと大志の混合物」と同定するところのものが、彼の大西洋を横切った旅を延期させることとなり、その代わり、彼は、展示を行い批判を受けるために彼の諸作品をイギリスに送った。
 35歳のコプリーがついに航海を行った1774年には、彼が死ぬほど欲していたところの、ロンドンの目利き達からの高い称賛を彼が獲得したかもしれない、画家としての諸技術(effects)を身に着けるには、自分の流儀が確立し過ぎていた。・・・
 北米植民地における贔屓達は、寓話的ないし歴史的な諸題材よりも諸肖像画を好み、しばしば、かなりの程度の写実性を求めたため、彼の芸術的水準(license)へのいかなる衝動も抑圧してしまった。・・・
 <しかも、>著名な親英派(loyalist)の一家との婚姻による絆がコプリーの忠誠<の対象>を形成した。
 もっとも、彼は、常に、1774年に、自分がボストンを去って欧州に赴いたのは、政治的動乱を逃れるためではなく、芸術的前進を求めるためだった、と執拗に主張したが・・。」(β)

 「画家のジョン・シングルトン・コプリーは、ボストンという、「とんがった(spiky)、心配症の場所で育ったところの、とんがった、心配症の男」だった。」
 <清教徒の町であった>そこでは、劇場はタブーであり、踊りは議論の的になった。
 彼は、寡婦で金欠のタバコ屋の<母親の>どもりの息子として、成長すると、著名なアメリカの愛郷者達(patriots)と英国の貴顕達(royals)を描くようになった。
 彼の令名は、彼の共感者達同様、新世界と旧世界にまたがっていた。
 1774年に英国に赴いた後、彼は、<英国王の>ジョージ3世にさえ会い、その英国で、自分の売り込みに熱心過ぎる、あくなき上昇志向の人物として知られるようになった。
 しかし、コプリーの技量は議論の余地がなかったものの、それは、諸絵具からの大量の鉛が彼の技量低下を促進したように見えた頃までのことだった。」(A)

 「コプリーは、独立した米国に住むことは一度もなかった。
 1776年の米独立宣言の2年前にロンドンに向けて航海し、戻ることはなかったのだ。
 ウォータールーの戦いがあった年である1815年に彼は死んだが、その時点で、彼は、自分の人生の半分超をイギリスで生きたことになる。」(α)

(続く)