太田述正コラム#9143(2017.6.8)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その10)>(2017.9.22公開)

 「縄文時代の遺跡から、きわめて多数の土偶と呼ばれる祭祀用の土製の人形が出土している。
 「土偶は縄文時代を代表する遺物である」といってよいほどである。・・・
 縄文人は、子供を生む母親の能力を大いに尊重していたと考えてよい。・・・
 かれらは魚、貝、植物なども自然にふえるのではなく、人間の目に見えない母なる精霊の力によって繁殖すると考えた。
 このようにして、縄文人があらゆる自然物を生み出す母なる神を最も重んじるようになったのである。

⇒前に引用したように、「世界的には、こうした土製品は、新石器時代の農耕社会において、乳房や臀部を誇張した女性像が多いことから、通常は、農作物の豊饒を祈る地母神崇拝のための人形と解釈されることが多い。ただし、世界史的には、狩猟・採集段階の時代のものとしての類例があまりない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%81%B6 前掲
というのですから、武光は、一、どうして、日本以外の「狩猟・採集」社会には「土偶」的なものが「あまりない」のか、そして、二、世界一般の初期「農耕社会」において、「土偶」的なものが「多い」にもかかわらず、「母なる神を最も重んじるように」ならなかったのはどうしてか、を説明すべきでした。
 一についてですが、アメリカインディアンの場合、「狩猟、漁労、採集と農業を組み合わせる部族が多<かった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3#.E5.8C.97.E6.9D.B1.E9.83.A8.E3.81.A7.E3.81.AE.E5.AE.97.E6.95.99
という点では、縄文時代と似ていますが、「プエブロを除けば多くの部族が程度の差はあれ移動性の生活を送っていた」(上掲)という点で異なっており、女性達に比べて、空間把握能力の高い男性達が取り仕切ったであろう(典拠省略)ことから、その宗教も「母なる神」的な存在とは基本的に無縁であったと思われるのです(上掲)。
 ちなみに、定着生活を送っていたプエブロ・インディアンの場合はどうであったかと言えば、その宗教は、単一の女神たるSpider Grandmother、と、大勢の男と思われる精霊(kachina)達、の二つを柱にするものであったようですが、前者を「母なる神」と見ることは困難であるように思われます。
 そもそも、プエブロ・インディアンも、他のインディアン諸部族同様、父系制社会でしたしね。
 プエブロ・インディアンにあっても、移動性の生活を送っていたインディアン諸部族からの攻撃に常に晒されていたことから、女性優位の母系制にするわけにはいかなかったでしょうね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Puebloans
https://en.wikipedia.org/wiki/Spider_Grandmother
https://en.wikipedia.org/wiki/Kachina
 二については、どなたかがヒントなり、いただければ幸いです。 (太田)

 母なる女神は、縄文時代が始まる1万6000年前から縄文文化圏全体で祭られていた。

⇒今度は、通説とは1000年違いの1万6000年ですか。
 武光も(校正を担当する)出版社のPHP研究所も杜撰極まりないですね。(太田)

 そしてそれが土偶を用いる一定の物に整えられたのが、縄文時代の開始から一万年ほど経た時期だったと考えるべきであろう。

⇒「日本最古級の土偶には、三重県松阪市飯南町の粥見井尻遺跡で見つかった縄文時代草創期(<草創期は約1万3,000年前からだが、>約1万2,000年〜1万1,000年前)のもの2点がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%81%B6 前掲
というのですから、6000年前だとしている、武光の精神状態を疑ってしまいます。(太田)

 土偶の祭祀が広がった約6000年前頃から、一部の遺跡に石棒(せきぼう)<(注29)>という石を棒状にした祭器が現れている。

 (注28)出現するのは縄文時代前期(6000年前から5000年前)なので、土偶よりずっと後だ。
 なお、「東日本に多く、西日本ではまれにしか出土しない。・・・最大の石棒は長野県佐久穂町にある北沢大石棒で、長さ223cm、直径25cmを測る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A3%92
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3 前掲

 またその頃から、勾玉<(注30)>、管玉(くだたま)、小玉(こだま)などの多様な形の玉類も祭祀に使われるようになった。

 (注30)縄文時代早期末から前期初頭(6000年前前後)に出現。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%BE%E7%8E%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3 前掲
 なお、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は八咫鏡・天叢雲剣と共に三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)の1つ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B0%BA%E7%93%8A%E5%8B%BE%E7%8E%89

 石棒が土偶と対になって用いられた例もあることから、石棒は男性を象徴するものと考えられている。
 神道は勾玉を霊魂(精霊)の形をあらわすものとするが、縄文人も球形や円形を基本とする玉類は霊魂(精霊)に代わるものと考えていたのだろう。

⇒「神道は勾玉を霊魂(精霊)の形をあらわすものとする」の検証はできませんでした。(太田)

 男性も女性もそのような霊魂をもつことから、玉類は中性的なものと評価することができる。
 縄文人の集団の中に、女性、男性、中性をあらわす土偶、石棒、玉類をともに祭るものもいた。
 しかしより多くの集団が、女性の土偶だけか、女性の土偶と中性の玉類祭祀を行なっていた。」(60〜63)

⇒これについても、検証はできませんでした。(太田)

(続く)