太田述正コラム#9139(2017.6.6)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その8)>(2017.9.20公開)

 「「合祀」とは、「それまでは別々の精霊の集団であった二柱の神様を、合わさってより有力な一つの神様にすること」である・・・。
 ・・・神田祭で知られる神田神社<(注24)>(千代田区)は、「神田明神」の通称で呼ばれ、「平将門を祭る神社」といわれている。・・・

 (注24)「社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命<(大国主命)>を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%A5%9E

 鎌倉時代になって時宗の僧の真教(しんきょう)(他阿弥。1237〜1319)<(注25)>が、平将門の怒りをしずめるために、将門の霊を大己貴命・・・(おおなむちのみこと)(大国主命)・・・、少彦名神を祭神とする神田神社に合祀した(1309年)と伝えられる。・・・

 (注25)他阿弥陀仏。「俗姓は[村上源氏(中院流)の総本家にあたる]ともいわれる。・・・九州で時宗の祖一遍に師事して以来、一遍の諸国遊行に従う。・・・<一遍>入寂に際して時衆は各地に散って自然消滅している。それを再結成して他阿自らが中心となって再興をなしとげた。・・・他阿真教こそが、時宗の実質的な開祖といえよう。宗祖一遍とならぶ「二祖上人」と通称され<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E9%98%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E5%AE%B6 ([]内)

⇒神田明神(神田神社)のHPには、「平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。」
http://www.kandamyoujin.or.jp/profile/
とあります。
 仏僧にそんな「権限」があったのか、という気もしますが、神仏習合の時代で、しかも真教が貴種出身者(の可能性が大)であったことが預かっているのではないでしょうか。
 なお、少彦名神が神田神社の祭神になった経緯については、「1874年(明治7年)、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請され<、>平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後1984年(昭和59年)になって本社祭神に復帰した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%A5%9E 前掲
というのが正しそうである・・(歴史書とは言えないが)下掲2書↓
https://books.google.co.jp/books?id=5jqNDAAAQBAJ&pg=PT20&lpg=PT20&dq=%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%A5%9E;%E5%B0%91%E5%BD%A6%E5%90%8D%E7%A5%9E&source=bl&ots=cxGKhmahpk&sig=2hg2cAz8311mh6ydnHVvY4QLrNk&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi-18ut_KjUAhWLXbwKHchXCp44ChDoAQhTMAk#v=onepage&q=%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%A5%9E%3B%E5%B0%91%E5%BD%A6%E5%90%8D%E7%A5%9E&f=false (雲村俊●(立心偏に造)『江戸名所の謎』)
https://books.google.co.jp/books?id=vuCYBAAAQBAJ&pg=PT21&lpg=PT21&dq=%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%A5%9E;%E5%B0%91%E5%BD%A6%E5%90%8D%E7%A5%9E&source=bl&ots=sTkwTpCD1k&sig=Vgp-c-GwaMP_-mSMYpZtXc61lFk&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj6wJTCgKnUAhWCHpQKHdcaBSk4FBDoAQgrMAI#v=onepage&q=%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%A5%9E%3B%E5%B0%91%E5%BD%A6%E5%90%8D%E7%A5%9E&f=false (永井路子『続悪例列伝』)
にもほぼ同趣旨の記述がある・・ところ、ここでも武光はケアレスミスを犯した、と言えそうですね。(太田)

 このような合祀によって発展してきた神社は、かなりある。・・・
 藤原氏の荘園には春日神社が、比叡山の荘園には日吉(ひえ)神社が、清和源氏の荘園や清和源氏に従った武士の領地には八幡宮が勧請(かんじょう)(神仏の分霊を迎え入れること)された。
 しかし、古くからの土地の神の信仰が廃れたわけではない。
 ここにあげたような神社は、前からある大国主命などを祭る神社に、春日神社などの神様を合祀する形でつくられたのである。」(38〜41)

⇒春日大社の場合、藤原氏の合祀4祭神の前に祭られていた神が何であったか分かっていません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%A4%A7%E7%A4%BE
し、日吉大社の場合、元々の祭神は大山咋神であったところへ、大己貴神(大国主神)が勧請された、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE
というのですから、武光の要約の仕方には首を傾げたくなります。(太田)

(続く)