太田述正コラム#9137(2017.6.5)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その7)>(2017.9.19公開)

 「現在では、日本の神様は人間に似た姿に描かれている。
 これは平安時代はじめ頃に、仏像にならって神像<(注22)>がつくられるようになったことによるものである。

 (注22)「神道においては古くは、カミの依り代(よりしろ)である鏡、玉、剣が崇敬されてきた。仏像の影響により、神像が制作されるようになったが、仏像とは異なる特徴を持つにいたる。
 木彫の坐像が多い。男神像の髪型はみずらまたは冠をかぶった衣冠装束が多く、女神像は十二単を着用しているものもある。神社に安置される神像は「ご神体」とされて一般に公開されることはあまりなく、寺院における仏像とは対照的である。
 史料上の初見は、『多度神宮寺伽藍縁起資財帳』(延暦20年(801年))である。『多度神宮寺伽藍縁起資財帳』によると、天平宝字7年(763年)に神託により、満願が作ったとある。現存最古のものは、奈良・薬師寺の鎮守・休岡八幡宮の神像、あるいは、京都・松尾大社の神像と言われている。いずれも平安時代前期の9世紀のものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%83%8F

⇒「具体的証明を示していない<ところの、>・・・法隆寺の支柱の胴張りとギリシャ建築のエンタシスを関連づけた<伊東>忠太の学位論文(1893年(明治26年))」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E5%BF%A0%E5%A4%AA
が、(その可能性は低いが)「具体的」に「証明」されるようなことがあれば、神像も、エンタシスの出現よりも時期的にかなり遅れつつも、(かつての仏教における仏像同様、)直接、ギリシャ彫刻にならってつくられるようになった、という説が登場したとしても不思議ではありませんね。(太田)

 しかし『古事記』などに記された日本神話の原形がつくられた古い時代の人びとは、「神様は、人びとの前に姿を現わさない」と考えていた。
 原則として神様は「神託を受ける巫女にだけ言葉を伝える存在である」とされたのだ。
 日本人は古くから、・・・精霊崇拝(アニミズム)の考えをとってきた。・・・
 3世紀はじめから大和朝廷が発展していく中で、「有力な家の祖先の霊魂が、精霊たちの指導者となって神になる」とする考えが広まった。
 私はそれを「首長霊信仰」<(注23)>・・・と呼んでいる。

 (注23)「弥生時代には、縄文時代の精霊信仰に加えて新たに稲の豊穣を祈る穀霊信仰と祖霊信仰が大きな柱になっていったと考えられます。・・・
 弥生時代に穀霊信仰が存在したことを表すのが、・・・各地の遺跡から出土する鳥型の木製品や・・・鳥装のシャーマンとおぼしき人物が土描かれた土器です。
 穀霊を運ぶ生物として鳥を崇拝する風習は、現在でも穀霊信仰を行う東南アジア稲作民族に広く認められます。・・・日本でも島根県津和野町弥栄神社に鷺の姿に扮して舞う鷺舞という神事があります。
 神武天皇の軍を先導したとされる八咫の烏をはじめ、鳥に対する独自の崇拝は『古事記』『日本書紀』など、日本の古代文献にも見られます。
 こうした鳥に対する崇拝の観念は、天空に近い場所をより神聖とする観念の表れでもあることが、東南アジアの民族事例や古代中国の文献などから窺うことができます。
 弥生時代の建物が描かれた絵画土器に・・・物見櫓のような高い建物がよく描かれたり、・・・重層の建物が出現してくる背景には、穀霊信仰とそれに基づく穀霊を運ぶ鳥への崇拝があったと想像できます。・・・
 <また、>弥生時代後期後半には、日本各地で大規模な墳丘を持った墳丘墓がつくられるようになり、これらの墓の周囲で祭祀が行われるようになります。・・・
 特別な墓とその墓に対する祭祀は、弥生時代の前期末頃には北部九州地方に出現していたと見られます。こうした特別な墓とそれに対する祭祀の存在は、弥生時代の階層分化の状況を物語るとともに、特定の死者(首長霊)に対する社会的な祭祀が現れてきたことを物語っていると考えられます。
 弥生時代に新しく出現してきたこうした状況は、新たに生成してきた祖霊信仰の表れとみることができます。
 重要なのは、こうした「祖霊」に対する信仰が階層分化に伴って首長制と結びつき、新たな支配原理として発展していったと考えられることです。
 首長霊を祖霊として祀り、特別な聖性を付加することで、その霊力を背景とした支配者の支配の正統性や力の保持がはかられていったと考えられます。
 新天皇の即位式である大嘗祭は、天皇家の祖霊とも言うべき「天皇霊」を新天皇が継承する祭祀儀礼であることが、多くの民俗学者により指摘されています。
 このような不滅の「霊」と、その霊を継承する人物に対しての神聖視ともいうべきものが、弥生時代に生まれてきたと想像できます。
 古墳時代の大規模な前方後円墳の出現は、弥生時代の首長霊に対する祖霊信仰が、さらに支配原理として大きな力を持つようになったことの表れであると思われます。」
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode05/rites_1.html
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode05/rites_2.html

⇒首長霊/天皇霊は、武光が初めて唱えた説のようですが、この説が、かみ砕いた表現で下掲で説明されています。
https://www.athome-academy.jp/archive/history/0000000187_all.html
 とりわけ興味深いのは、この箇所です。↓
 「首長霊信仰とは・・・有力豪族の祖先を「首長霊」として祭り、その霊が、自身の子孫だけでなく、庶民も守ってくれるとする発想です。
 そして大和朝廷は、「天皇霊(すめらみことのみたま)と呼ばれる大王(おおきみ)の首長霊を最も尊いものとし、これを頂点として、豪族達の首長霊の序列をつくりました。つまり、天照大神(あまてらすおおみかみ)がいちばん偉い神だとし、天皇の祖先神を中心に神々の序列をつくったわけです。
 そしてそれを上から一方的に強制するのではなくて、確かに序列はあるけれども、民にとっては、各氏族、各地方の神様がいちばん大切だ、というように、それぞれの自立性を残しながらまとめていったんです。・・・
 誰もが、自分たちの神様の系列をたどっていくと天照大神につながっていくわけですから・・・国民の間に自然に一体感が生まれてくるというわけです・・・。
 一つの村が一つの神様を祭り、その信者同士がお互いに助け合ってまとまっている。その村々も、同じ神様を信仰するもの同士、助け合いにつながっているわけです。そういう日本の神社信仰はごく最近まで残っていました。今でも人間のつながりとか、人間の和というのは、われわれ日本人の中に根強くありますね。・・・
 他民族から征服されることなく、村の首長がそのまま大きくなった形で国が統一されたというのは、外国にはない珍しい例です。」
 (弥生人と縄文人との関係をどう捉えるかという問題を孕む一番最後の一文はともかく、)私としても基本的に首肯できますが、これに付け加えるとすれば、これは、平等性を前提にしていた縄文人達の人間主義を、自分達の間でも階統性を前提にしていた、支配者たる弥生人達が、このような形で止揚した、ということだと思うのです。
 私流に名付ければ、さしずめ、原始的日本型政治経済体制、ですね。(太田)

 この「首長霊信仰」は、考古学者が用いた古墳の祭祀などをさす用語である。
 このような信仰は、そのままの形で現在の神道に受け継がれていった。
 そのため皇室の先祖とされる天照大神が、日本全体の守り神として信仰されたのである。」(37〜38)

(続く)