太田述正コラム#9135(2017.6.4)
<ダコタ戦争(その4)>(2017.9.18公開)

 (4)リトル・クロウ

 「著者によって正確に描写されている、この男は、この戦争当時には約52歳であり、教育を受け、言葉遣いが明晰で明敏な指導者であって、天然痘の諸疫病と共に、彼が「条約を結び、狩りをし、政治活動に携わった」ところの、白人達の悪意あるよそ者嫌い(virulent xenophobia) 、を生き抜いてきていた。
 彼らの故郷での毛皮交易が廃れて行った後、リトル・クロウは、この部族に約束されたところの、毎年の食糧と現金という政府の施し物を見返りとして、ミネソタ河の近くの特別保留地に、彼のダコタ・バンドを移動させることに同意した。
 1861年の暴虐な冬に、穀物が採れず、連邦政府の諸支払いが遅延した結果は予想できる反応だった。
 1862年8月のリトル・クロウと彼の部族会議が関わった激しい集会の後、若きダコタ族の戦士達は、白人の諸入植地の間を荒れ狂い、一人の農民と彼の家族を殺し、一か所の交易所(trading post)を攻撃し、かつ、他の諸略奪行為を犯した。・・・
 9月の終わりには、このインディアン達は降伏し、リトル・クロウはカナダに逃げ込み、303名のダコタ族達が、急いだ裁判で、一般住民達の殺害(そして若干の場合、強姦)の咎で有罪とされ、死刑が宣告された。」(C)

 「リトル・クロウは、約100名の戦士達の一団は大平原へと逃走し<、彼自身は、カナダに更に逃亡したわけだ。>・・・
 そして、痛烈な皮肉の秋(とき)と言うべきだが、リトル・クロウ自身は、彼とその十代の息子とだけで旅をしていて、ラズベリー畑(patch)で馬に草を食べさせている時に、一人の農民とその息子によって、7か月後、(ゲティスバーグの戦い(Battle of Gettysburg)が終わったのと同じ日に、)銃で撃たれて死んだ。
 この農夫は、彼らが殺しているのが誰かを知らなかった。
 彼らは、単に、25ドルの懸賞金が掛かっていたところのインディアンを殺害し、<その証拠としての>頭の皮を剥ごうとしていたのだ。」(D)

4 終わりに

 ダコタ族等のスー族は、こうしてミネソタ州から追放されたわけですが、その後、「1866年から1868年までのワイオミング準州とモンタナ準州で・・・スー族およびシャイアン族と<米>国の間の武力紛争」があり、「1868年の「ララミー砦条約」で和解がもたれ」た
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E6%97%8F 前掲
結果定められた、インディアンの大特別保留地・・現在の南ダコタ州内・・と、この大特別保留地が、その後、どれだけ、悪逆非道の人種主義国、米国によって、ブラックヒルズ戦争(1876〜77年)(上掲)やウーンデッド・ニーの虐殺1890年)(コラム##4426、5898、9121)等を経て、浸食されて行ったか、が下掲の図から見てとれます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E6%97%8F#/media/File:Siouxreservationmap.png
 なお、現在の、ミネソタ州、南北ダコタ州、ネブラスカ州における、諸インディアン特別保留地の状況が、下掲の図(橙色)で分かります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%82%BD%E3%82%BF%E5%B7%9E#/media/File:Sioux01.png
 「貧困にあえぐ<諸>インディアン部族」は、これらの特別保留地群の中で、現在、「多くのスー族が・・・カジノ・・・を運営<するに至っ>ており、その収入高は莫大なものとなって」いて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E6%97%8F 前掲
インディアンの将来に若干なりとも明るい展望が開けていることは、ご承知の通りです。(コラム#8999)

(完)