太田述正コラム#9103(2017.5.19)
<二つのドイツ(その5)>(2017.9.2公開)

 (5)ドイツ第2・第3帝国

 「著者の見立てによれば、プロイセンは、ドイツの全ての諸悲哀(woes)の諸源泉なのだ。
 それは、ビスマルク(Bismarck)の下でドイツをハイジャックし、皇帝ヴィルヘルムの下でドイツ人達を戦争へと駆り立て、ヒットラーを権力の座へと投票した。
 <そのプロイセンは、>連合諸国によって根絶されたが、その幽霊が東独の中で生き続け、<現在でも、かつての>西独の諸資源を無期限に吸い上げ続けている。
 これらの戦争好きのプロイセン人達がいなければ、<ドイツは、>「国家信仰、清教徒的熱中(zeal)、そして、顔に傷跡のある軍国主義、とは常に無縁の」平和的で繁栄した場所、「<すなわち、>地」であり続けたことだろう。
 <その場合、>要するに、ドイツは、全くもって、金持ちで、魅惑的(enchanting)、ではあるけれど、歴史学者達の関心は全く惹かない、スイスみたい<な国>になっていたことだろう。」(C)

⇒少なくとも、この本の書評群には、プロイセン等がそうなった原因が出て来ませんが、私の取りあえずの仮説は、好戦的で貧しかったのは、東部ドイツ人達が、黒パン帯(「ライムギ<(rye)は、>・・・寒冷な気候や痩せた土壌などの劣悪な環境に耐性があり、主にコムギの栽培に不適な東欧および北欧の寒冷地において栽培される・・・ライ麦パンは色が黒っぽいことから黒パンとも呼ばれる<が、>・・・食味などの点からコムギのパンのほうが常に高級とされ・・・ローマ帝国では、貧困者が食べるものとしていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%AE 
)とビール帯(前出)(「オオムギ<(barley)は、>・・・小麦よりも低温や乾燥に強いため、ライ麦と共に小麦の生産が困難な地方において多く栽培される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%82%AE )の中に位置していた(前掲・上掲)ために、貧しく、だからこそ、侵略的で、当初は、民族が異なり、また、「弱い」、東方のスラヴ人地域へと拡大し、そのずっと後になって、プロイセンが大国化してから、今度は、同じ民族で、「強い」、西方のドイツ人地域へも拡大して行った、というものです。(太田)
 
 ドイツ統一の悲劇は、それが、統一されたドイツではなく、プロイセン帝国を生み出したことであり、それは、ホーエンツォレルン(Hohenzollern)宮廷の支配を拡大したことだ。
 西部及び南部ドイツの勤勉な諸州は、プロイセン国家のために諸資金を、ユンカー(Junker)<(注11)>貴族達に諸税制優遇措置(tax breaks)を、提供したのだ。

 (注11)「12世紀から13世紀にかけてエルベ<河>以東へのドイツ農民の東方植民が盛んになった。その農業は当初西部ドイツのグルントヘルシャフト<(Grundherrschaft)>と変わらぬ方法で運営され、農民には大きな自由があり、土地移動や職業変更も認められていた。農民は自己の土地に世襲の所有権を持ち、みずからの社会の内部から村長を出してその裁判権に服していた。農民に課せられた義務は領主に地代、君主であるブランデンブルク辺境伯に税金と年に数日程度の賦役を提供することだけであった。
 領主は辺境伯の御料地である場合を除けば辺境伯に領地を与えられた下級貴族の騎士であることが多かった。騎士は領地を頂戴する代わりに辺境伯に戦時奉仕義務を負っていた。彼らがユンカーの先祖である。
 14世紀から15世紀には相次ぐ戦争で君主が財政難に陥り、それによって力を落とした君主に代わって貴族が台頭した。ブランデンブルクでも領主が裁判権や賦役権を獲得し、領主たちが農民を直接支配するようになった。賦役も領主個人の私的目的のために濫用されることが多くな<り、領主たちは、>・・・さらに領主裁判権・警察権を行使する<ようにもなった。>・・・ペストの大流行で農民の数が減少し、領主も収入を得るのが難しくなり、農民が都市に出ないよう土地に縛りつけることも多くなった。>この>・・・貴族権力の強化と農民の地位の低下<は、>・・・16世紀以降にはその傾向が一気に加速した。
 16世紀には・・・オランダと<イギリス>を中心に・・・穀物の需要が増加した。その供給地たる東<欧>にとっては利益をあげるチャンスだった。<エルベ河以東の>貴族たちもこの波に乗るべく自ら農業経営に乗り出していった。
 また軍事の有り様が、騎士の戦時奉仕から傭兵から成る常備軍へと移行したことで貴族たちが騎士としての役割から解放されて農業経営に専念できるようになったこともそれを後押ししていた。
 こうしてエルベ川以東に領地を持つ貴族たちは近代的な農業経営者たる「ユンカー」に変貌していった。彼らの直営農業地をグーツヘルシャフト<(Gutsherrschaft)>と呼ぶ。・・・
 18世紀の絶対王政時代にプロイセンでは<、この>ユンカーが軍の将校・行政府の官僚を占めるようになった・・・。・・・
 19世紀後半頃から経済的に苦しくなるユンカーが増え保守化を強めた。帝政崩壊後(ヴァイマル共和政、ナチス政権)にはユンカーは旧時代の残滓として冷遇されるようになっていったが、農地改革や軍の機構改革は行われなかったためユンカーの影響力は残った。第二次世界大戦後、東部ドイツを占領したソ連・・・が徹底的な農地改革を行った結果、ユンカーも完全に解体された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC
 「ブランデンブルク辺境伯<は>・・・現在のブランデンブルク州の大部分とベルリン、およびポーランドの一部<を>・・・領地<として、>・・・1157年に設置され[、1356年に・・・選帝侯のひとりとなった。]・・・
 1415年、ホーエンツォレルン家<が>・・・ブランデンブルク選帝侯位を獲得し、ベルリンを居城とした。1539年には<同家は>ルター派に改宗した。・・・
 1618年には・・・婚姻関係によって神聖ローマ帝国の領域外かつポーランドの封土であ<り、かつてドイツ騎士団領であった、>プロシア公領<(現在のロシア・カリーニングラード州)>を手に入れ、同君連合ブランデンブルク=プロイセンを形成した。また、1648年にはヒンターポンメルン (・・・Hinterpommern) (現在のポーランド領西ポモージェ県)を獲得した。・・・北方戦争時にはプロシア公領をポーランドの支配下から完全に独立させた。
 ・・・<同選帝侯>フリードリヒ3世・・・は<、>スペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側に付き、その見返りに1701年、<皇帝家たる>ハプスブルク家から帝国外のプロシア公領の王(プロイセン王)としての称号を認めさせ、プロイセン王国が成立した。この結果ブランデンブルク選帝侯の地位はプロイセン王と兼任されることになり、ブランデンブルク辺境伯領はプロイセン王国の一部のように扱われるようになる。
 ブランデンブルク選帝侯領はプロイセン王国の成立後も形式上は神聖ローマ帝国の領邦として留まったが、神聖ローマ帝国が正式に解体された1806年に正式にプロイセン王国領ブランデンブルク州となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E8%BE%BA%E5%A2%83%E4%BC%AF%E9%A0%98
http://www.y-history.net/appendix/wh0904-107.html ([]内)

 認識しうる最初のナチ達の先駆者達は、公然たる反ユダヤ主義候補者達として立候補し、1893年の総選挙<(注12)>で帝国議会の16議席を勝ち取った。

 (注12)反ユダヤ主義党の得票率は3.4%。なお、この選挙で、得票率1位は社会民主党で23.3%、2位が中央党で19.1%だったが、議席数は、中央党が首位で、社会民主党は4位にとどまっている。
https://en.wikipedia.org/wiki/German_federal_election,_1893

 彼らの諸勝利は、全て、ルター派の、プロイセン、ザクセン(Saxony)、ヘッセン(Hesse)におけるものだった。

⇒十分調べる労を惜しみましたが、「1812年<に>プロイセン王国がユダヤ教徒解放勅令を出<し、>・・・1848年<の>三月革命<以降、>・・・、[首都がドレスデンである]ザクセン、<及び、>ワイマール、アイゼナハなどではユダヤ教徒の法的平等が実現し、ユダヤ教徒が大学教授や裁判官に就任するなど、ユダヤ教徒の解放は進展した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%B8%BB%E7%BE%A9
ところ、ワイマールもアイゼナハもザクセンの一環
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%8A%E3%83%8F%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD
なのですから、プロイセン等、ドイツ東部・・ザクセンもワイマールもアイゼナハも先の大戦後東独領・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD ([]内も)
https://en.wikipedia.org/wiki/Weimar#Since_1945
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD#/media/File:Germany_Laender_1947_1990_DDR.png
が、果たして反ユダヤ主義の発祥地、と言えるのか、疑問です。
 なお、ヘッセンは、東部寄りの中部ドイツといったところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%B3%E5%B7%9E
https://en.wikipedia.org/wiki/Hesse (太田)

 ドイツは第一次世界大戦に勝っていてもおかしくなかったのに、ルーデンドルフ(Rudendorf)とプロイセンの将軍達にとっては、ロシアを打ち破ってボルシェヴィキ樹立を見届けただけでは十分ではなかった。
 彼らは、1000年に及ぶ、スラヴ人達を従えた帝国という幻想を追求し、東方において、諸部隊を無駄遣いし続ける決意を維持した。
 <これら諸部隊を>西部<に転用しておれば、そちら>における、1918年の連合諸国の前進を阻むことができたかもしれないというのに・・。

(続く)