太田述正コラム#9101(2017.5.18)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その32)>(2017.9.1公開)

 新政府は・・・春画・エロ本・・・にも対処する必要に迫られた。
 その結果、1869(明治2)年旧5月、「淫蕩を導くことを記載することを禁ずる」という行政官通達が出されたのを皮切りに、1872(明治5)年11月、違式●違条例の制定、そして1875(明治8)年9月には出版を試みる者は草稿が完成した本を内務省に提出しなければならないとする出版条例が発布されるなど、春画・エロ本の取締令が矢継ぎ早に公布された。・・・
 <しかし、>明治維新の社会的な混乱の中で、・・・外国人との売買<が爆発的に増える等、>・・・実態が見えにくくなった<ものの>、<春画を含む>浮世絵の取引は江戸時代とは別の意味で盛んだったのである。・・・
 <また、>出版条例が発布されて2か月後の11月12日、近代初のエロ本の出版が認められた(発売は1876年)、それらは江戸時代の春本とは内容もさし絵類もあまりに異質だったために、世間の関心は新しいタイプのエロ本に集中したのである。
 タイトルは『造化機論』といい、米国・善亜頓(ゼームス・アストン)原撰<(注101)>、日本・千葉繁<(注102)>訳述と表紙には印刷されている。

 (注101)「その原著はJames Ashtonなる人物による、”The Book of Nature”(1865)である。・・・『オナニーと日本人』(1976)の著者・木本至氏は、「健康法の一部としか扱われなかった人間の性は、ようやく明治八年に『造化機論』(乾坤二冊)が刊行されるに及び、はじめてプロパーな専門書をもつことができた」、「『造化機論』こそは、近代の言葉と論理で性を解きあかしたモニュメンタリーな書物として是非とも記録されねばならない」と、最大限の賛辞を送っている(同書69頁)。」
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/digitalarchive/collection/akagawa_manabu.html
 なお、上掲の筆者の赤川学(1967年〜)は、現在、東大院人文社会系研究科・文学部の准教授。東大文卒、同大博士(社会学)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B7%9D%E5%AD%A6
 (注102)「千葉繁・・・は、天保5(1834)年、かつて上総国を統治した戦国大名・下総千葉家の末裔を名乗る、江戸本所の医師・忠詮の二男として生まれた。・・・父・忠詮こと千葉胤邑は、天保7(1836)〜9(1838)年のどこかで、浜松井上藩に医師として召し抱えられた。・・・激動の幕末を経て明治政府が誕生した明治元(1868)年、浜松井上藩は鶴舞6万石に転封となる・・・おそらく浜松井上藩のなかでも、父と同じ医学畑を歩み、この過程で洋学の素養を身につけたのであろう。明治5(1872)年、鶴舞藩・鶴舞県は消滅、繁は、おそらく英語力を買われて神奈川県庁に三等訳官として勤務する(38歳)。しかし明治8(1875)年、わずか3年で退職するのとときを同じくして、『造化機論』を出版し、ベストセラーとなる(41歳)。」(上掲)
 「鶴舞藩<は、>・・・明治維新により、徳川家に駿河、遠江70万石が安堵されたことにより、既存の駿河・遠江の大名は上総に移封されたが、浜松藩の前藩主井上正直が<1868年に>上総鶴舞に移されて立藩した。正直が鶴舞藩知事として<1871年の>廃藩置県を迎える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%88%9E%E8%97%A9

 これ以後、同種のエロ本が続々と世に出された。
 造化機とは・・・訳者である千葉の造語で、ペニスとバギナを指している。・・・
 千葉は神奈川県の十一等出仕という下級公務員で漢語と英語に堪能だったという。・・・
 千葉の場合は、新島原に関わった役人よりも目端がきいた。
 さし絵<(注103)>が珍しいとして初稿も大いに売れたが、漢文調の本文が難解という批判が相次ぐと、千葉は即座に読みやすい日本語に切り替えて新たに発売し直したのだ。

 (注103)その一端を下掲の図1から知ることができる。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/digitalarchive/collection/akagawa_manabu.html 上掲

 題名は『通俗造化機論』とされている。
 『通俗造化機論』の版権が許可されたのが1876(明治9)年9月9日になっているから、まだ『造化機論』の余韻が冷めない頃だったはずである。
 それでも読みやすい『通俗造化機論』はいっそうのベストセラーとなった。・・・
 この2冊の公表に勢いを得て、千葉は1878(明治11)年4月、米エドゥルド・フート著、千葉繁訳の『造化機論二篇』、<と、そしてその後、更に別の一冊(上掲)>を出版した。・・・
 これらの造化機論・・・によって造化機はこの時代を象徴する言葉の一つとなった。
 ・・・明治時代に造化機という言葉を使った性典類は60種に達し、それに属する語が用いられた本はざっと300冊を数えるという。・・・」(242〜260、262〜264)

⇒現在の目では偽科学に見えたとしても、千葉自身は、性「科学」の本だと信じて、2つの原書の訳本を出版したのでしょうし、この訳本を検閲した内務省の担当官達もそう受け止めたからこそ、出版が認められたはずです。
 それにしても、日本の弥生人の系譜に繋がるところの、貴族や武士の中から、性におおらかな縄文人の系譜に繋がる庶民達の心情を反映したり、庶民達のニーズに応えた、文学や科学、に取り組む人々が輩出した、文武両道の伝統を千葉は体現していた、と思いますね。(太田)

(続く)