太田述正コラム#9099(2017.5.17)
<二つのドイツ(その4)>(2017.8.31公開)

 (4)第1帝国の綻び

  ア テュートン騎士団/ハンザ同盟

 「しかし、ワグナー的雲群が凝集しつつあった。
 一世紀の後、テュートン騎士団<(コラム#3284、7870(重要)、9079)>がキリスト教化したポーランドの東に出現した。
 古きローマ化しなかった戦争好きの野蛮人達の、異教徒たる<(=キリスト教徒たる)>跡継ぎ達、が、バルト海沿岸のハンザ同盟(Hanza)<(注7)(コラム#7878、8917)>諸町の交易者達によって資金提供され、これらの東邦人達(Easterlings)・・そこから、不思議なことに、スターリング・ポンド(pound sterling)<(注8)>が由来する・・がプロイセン(Prussia)<(注9)>を形作ったのだが、そのプロイセンは、当初は、西方のドイツ人達とは全く繋がりはなかった。」(B)

 (注7)「1161年に・・・遍歴商人たちの団体である「商人ハンザ」が誕生した。・・・<そ>の中心都市<は>・・・[現在、スウェーデン領の]ゴ<ッ>トランド島<の>・・・ヴィスビュー<(Visby)>だった。・・・
 13世紀になると遍歴商人、使用人に実務を任せ自らは本拠地となる都市に定住しながら指示を出す「定住商人」が台頭する。彼らは定住する都市で都市参事会を通じて政治に参加する有力市民であり、彼らの相互援助の都市間ネットワークを通じて都市間で条約が結ばれていった。これに伴い、ハンザ同盟の性格も商人団体から、商人が定住する都市によって構成される都市同盟「都市ハンザ」へと変質する。しかし、この過程で上記のヴィスビュー(遍歴商人団体の中心都市)とリューベック<(Lubeck)>(都市同盟の中心)の間で主導権争いが行われ・・・1298年のハンザ会議では、ヴィスビューに拠点を置く遍歴商人団体の廃止が決議された。・・・
 第2次世界大戦後はハンザの主体をドイツ人のみに限定する歴史観が批判され、現在ではハンザの主体を特定の国家・民族に限定するのは不適切であるとされている。それと同時に、ネーデルラントやスラヴ系住民らの果たした役割も強調されるようになっている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B6%E5%90%8C%E7%9B%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC ([]内)
 (注8)pound sterlingの英語ウィキペディアにはシャルルマーニュへの言及こそあれ、ハンザ同盟への言及はない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Pound_sterling
 (注9)「ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は北方十字軍を徴集し、何年もプロイセン侵略を試みたが敗北に終わった。教皇は十字軍をさらに準備した。終にコンラト1世は、クルムラント(現ヘウムノ)領有権と引き換えにドイツ騎士団を招聘し、プロイセンはプロイセン十字軍の期間にドイツ騎士団により征服され、ドイツ騎士団国家の管理下となった。
 1228年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の発したリミニの金印勅書(現在では偽造だとされる)により騎士団のプロイセン領有が認められ、この金印勅書を根拠として1230年に結ばれたクルシュヴィッツ条約でドイツ騎士団はプロイセンの領有権を確立、ケーニヒスベルク(現ロシア<領>、後にプロイセン公国、プロイセン王国の首都とし発展)や・・・マリエンベルク(<現ポーランド領
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%82%AF >マルボルク)・・・などに城を築き拠点とし発展していった。・・・14世紀前半までにプロイセンの・・・先住民・・・<の>大半はキリスト教化された。・・・
 ドイツ騎士団領プロイセンは20の大管区に分割、中央集権的システムにより各地の修道院を拠点に管区長が選挙で選ばれた総長の指示に従い統治した。騎士団員は修道士の戒律で私有財産の所有も妻帯も許可されないが、ドイツからは領土を持たない貴族の子弟が入会し・・・移民の受け入れも盛んであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3

 自然諸境界の不在が、常に、とりわけ東において、ドイツの最大の頭痛の種だった。
 ドイツの騎士達と商人達が、リガ(Riga)、タリン(Tallinn)、及びダンチヒ(Danzig)を創建したので、これらのハンザ同盟の諸港はドイツ的になった。
 もっとも、それらを取り囲む諸地はスラヴ的であり続けた。
 (ドイツ人住民達が一掃された現在でさえ、これらの諸都市は、高度にテュートン的に感じられる。)」(C)

⇒こうして、神聖ローマ帝国(第一帝国)の東北端の外にドイツ勢力が伸びて行ったわけですが、にもかかわらず、同帝国が東北に拡張されず、それが、後世、帝国領内外にまたがるブランデンブルク・プロイセン/プロイセンの勢力伸長もあって、帝国の弱体化を招く訳ですが、そのあたりの事情については、検討は後回しにします。(太田)」

  イ 宗教改革

 「宗教改革の時、カトリック的であり続けた全てのドイツは、シャルルマーニュのフランク王国の版図内にあった。<(注10)>

 (注10)ドイツで宗教改革が始まってから約1世紀後の三十年戦争(1618年〜1648年)時、まさにそうなっている。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89#/media/File:Map_Thirty_Years_War-en.svg

 ローマ<(=法王庁・・神聖ローマ帝国と持ちつ持たれつの関係にあった(太田)・・)>に対する叛乱は北と東から来たのだ。」(A)

  ウ ナポレオン戦争

 「ワーテルロー(Waterloo)の戦いの後、半世紀にわたって、英国人達はドイツ人達を我々の従兄弟達と見なした。」(C)

⇒ワーテルローの戦いは、オランダ、及び、ハノーヴァー朝英国(英国+ハノヴァー王国)、及び、ナッサウ(Nassau)公国、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%B5%E3%82%A6%E5%85%AC%E5%9B%BD
及び、ブラウンシュヴァイク(Braunschweig(公国)・・戦いの時点では、ハノーヴァー朝英国の摂政ジョージ(後のジョージ4世)が同公の後見人となっっていた・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AF%E5%85%AC%E5%9B%BD
、それに、プロイセン王国・・この時点では、ナポレオンとのそれまでの戦争によって失っていたところの、エルベ河以西の旧領地を回復していなかった・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Prussia#/media/File:Preussen-1806.jpg
の連合軍が100日天下中のナポレオンのフランスと戦ったところ、ドイツ東部から、英国の側に立って戦ったのは、(ドイツ東部全体を占める)このプロイセンだけだった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
上、ドイツ西部の奮闘が目立った・・参加兵力は、フランス兵以外では、英兵が24,000人、ドイツ西部兵が44,000人、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E8.8B.B1.E8.98.AD.E9.80.A3.E5.90.88.E8.BB.8D
プロイセン兵が50,000人だったが、フランス兵以外の死傷者計34,000人中、プロイセン兵は7,000人のみ・・わけですが、著者の言いたいのは、英国人達が、プロイセンを含むドイツ全体を恒久的な友好圏であると誤解してしまった、ということなのでしょうね。
 なお、1805年のナポレオンとの第三次対仏大同盟戦争に、神聖ローマ皇帝たるオーストリア帝国皇帝がロシア皇帝の支援空しく敗れたことで、1806年に神聖ローマ帝国は解散に追い込まれてしまっていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD#.E3.83.95.E3.83.A9.E3.83.B3.E3.82.B9.E9.9D.A9.E5.91.BD.E3.81.A8.E5.B8.9D.E5.9B.BD.E6.B6.88.E6.BB.85 (全般)(太田)

(続く)