太田述正コラム#9077(2017.5.6)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その29)>(2017.8.20公開)

 「こうして浮世絵を媒介として芽生えた自由への欲求が、文化運動にまで発展したのが狂歌ブームであった。
 狂歌とは社会風刺や皮肉を短歌で表現するものだが、これが寛政の改革の直前、天明時代(1781年〜1789年)には社会現象といわれるほど流行した。
 このブームの特徴の一つは武士から浮世絵師、商人、金貸し、歌舞伎役者、遊女屋の経営者など、あらゆる階層の人々が入り交じっていたことである。
 役者が賤民視<(注94)>されていた頃のことであるから、そこには大きな意味があった。

 (注94)「江戸時代<には、>・・・武士・百姓・町人(いわゆる士農工商)の枠外に賤民階級が置かれた。・・・職業は時代によって差があり、井戸掘りや造園業、湯屋、能役者(主役級)、歌舞伎役者、野鍛冶のように早期に脱賤化に成功した職業もある。・・・
 <なお、賤民に対しては、>江戸時代には家畜解体業や革細工などの専用の職業が与えられたり、特定の物品の専売権を持つ事により、結果的に生活の安定は最低限保障(場合によっては一般の平民以上の富者となるものもいた)されていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91

 有名な狂歌師とその職業を列記してみると、次のような名前が並んでいる。

 朱楽菅江(あけらかんこう) 山崎景貫(かげつら)、幕臣。
 軽小ならん 土山宗次郎<(注95)>。田沼意次の腹心で勘定組頭。大田南畝のパトロンとして狂歌の発展をバックアップした。

 (注95)1740〜1788年。「天明4年(1784年)<、及び、>天明5年(1785年)<、>・・・最上徳内らに蝦夷地調査を行わせたとされる。その一方で、吉原・・・の遊女<を>・・・1200両<も>払い身請けしたことで・・・評判とな<った。>・・・天明6年(1786年)・・・意次は老中職を罷免させられ<、土山は、>に富士見御宝蔵番頭となる。その後、買米金500両の横領が発覚し、その追及を逃れるため逐電し<たが、>・・・発見され、・・・斬首に処された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%B1%E5%AE%97%E6%AC%A1%E9%83%8E

 <中略>
 四方赤良(よものあから) 大田南畝(蜀山人)、幕臣。
 尻焼猿人(しりやけのさるんど) 酒井抱一、姫路藩主の弟。浮世絵師。
 <中略>
 筆(ふで)の綾丸(あやまる) 喜多川歌麿、浮世絵師。
 花道(はなみちの)つらね 5代目市川團十郎、歌舞伎役者。 
 宿屋飯盛(やどやのめしもり) 石川雅盛(まさもち)。日本橋の宿屋の主人。
 元木網(もとのもくあみ) 渡辺正雄、京都の湯屋の主人。
 <後略>

 これらの人々がそれぞれに狂歌連という結社を作って活動した。
 彼らの狂名とその職業を見ても、狂歌連とは当時の身分制を超越した、きわめて自由なサロンであったことがうかがわれる。

⇒江戸時代に身分制などなかったというのが通説になりつつある(コラム#省略)ことに注意が必要です。(大田)

 しかもその中には女性もいた。
 たとえば元木網の妻もその1人で、狂名を知恵内子(ちえのないし)と称した。
 また朱楽菅江の妻も節松嫁嫁(ふしまつのかか)と名乗る狂歌師であった。
 狂歌師の間で風刺の対象とされた1人が定信で、

 世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶぶんぶと夜も寝られず
 白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき

という狂歌はいずれも定信を揶揄したものである。
 最初の句は定信が贅沢に耽ったり、春本にうつつを抜かすことを止めて、文武両道<(注96)>に励むよう、しばしばお触れを出した、そのことを指している。

 (注96)「老中松平定信によって、旗本・御家人の学問<(漢学)>奨励のため「学問吟味」という試験が寛政4年(1792年)から行われた。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000177819
 「慶応4年(1868年)までの間に19回実施された。試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に気風を行き渡らせることであったが、慣行として惣領や非職の者に対する役職登用が行われたことから、立身の糸口として勉強の動機付けの役割も果たした。類似の制度として、年少者を対象にした素読吟味(寛政5年創始)、武芸を励ますための上覧などが行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9#.E3.81.9D.E3.81.AE.E4.BB.96 (上の<>内も)

⇒幕府(定信)がそんなお触れを出した事実はなさそうですし、「注96」の学問吟味、ひいては漢学奨励、をもって、「文」の奨励、と形容することにも、私は甚だ違和感を覚えます。
 確かに、引用された狂歌の最初の句は、定信が、「ぶんぶ」、すなわち、「文武両道」、の奨励をしたと言っているわけですが、まず、私見では、「文武両道」は支那由来の熟語ではありません。
 一般に、「文武両道」の典拠として、「史記 孔子世家」と「春秋左氏伝 定公十年」に出てくる下掲の挿話が挙げられています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E4%B8%A1%E9%81%93 ↓

 「文亊あるものは、必ず武備あり。請う左右の司馬(軍旅)を具え以て従わんことを」
http://gonsongkenkongsk.blog.fc2.com/blog-entry-221.html (下の<>内も。)
 「ここで言う「文事」とは、平和的外交交渉を指す。すなわち"外交交渉には 軍備を忘れるな"の意。・・・
 孔子が魯の定公のもとで司法長官<(大司寇)>に抜擢されて、政局の中枢にいたときのこと、<前500年、>斉とのあいだに修好条約を結ぶ話がもちあがった。
 じつは、これは孔子のもとで隆盛におもむく魯の勢いを早い時期に殺いでおこうという斉側の謀略であったのだが、定公は招きに応じて無防備のまま出発しようとした。
 折衝役を命ぜられていた孔子は「"外交交渉には軍備をわすれるな。軍事を発動する前には外交交渉に手をつくせ"と申します。
 昔から、領外に出るとき、諸侯は万一にそなえて、軍隊を従えて行ったものです。会盟だからといって油断なさってはいけません」
 定公は孔子の進言をいれ、軍隊を従えて・・・会場にむかった。」
https://laosivoice.wordpress.com/2011/09/02/%E6%96%87%E4%BA%8B%E3%81%82%E3%82%8B%E8%80%85%E3%81%AF/
 
 しかし、ここでの「文」の意味が、「文武両道」の「文」とは全く似ても似つかないものであることは明らかであり、この挿話は、いかなる意味においても「文武両道」の典拠たりえないのです。
 ですから、「文武両道」は日本で生まれた熟語である、と断じざるをえません。
 念のためですが、この、日本の熟語である「文武両道」中の「文」の意味するところは、下掲の馬具・・武器です!・・が端的に物語っています。↓

 「国宝の馬具である「時雨螺鈿鞍」(13世紀作)は、様々な装飾と文字をはめ込み、その主題は『新古今和歌集』の恋歌「わが恋は 松を時雨の 染めかねて 真葛が原に 風騒ぐなり」である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E4%B8%A1%E9%81%93 前掲

 すなわち、「文武両道」における「文」は、(詩歌や小説といった)文学を中心とする芸術なのであり、この和歌が示しているように、その核心には性交渉が存在しているのです。
 定信は、漢学と武芸の修得こそ奨励したけれど、それを「ぶんぶ」、すなわち、「文武両道」、の奨励と形容したところの、引用された狂歌の最初の句の作者は、無理やり蚊にひっかけるために、不適切な熟語を用いてしまった、といったところですね。(大田)
 
 次の句の白河は定信の領地である白河(現福島県)と清流の意をかけたもので、田沼は定信の前の老中の田沼意次と、濁った沼をかけている。
 つまり「きれいごとばかりいう定信のことは聞いていられない、賄賂が流行ったと言われる田沼意次の時代が恋しい」というわけである。
 こうして浮世絵の隆盛がもたらした自由な空気は、狂歌の隆盛と共に封建時代の身分制度に対する経れるなアンチテーゼとなったのである。
 その勢いに不安を感じたのか定信は、1787(天明7)年、狂歌ブームの最大のスポンサーであった土山宗次郎を公金横領の罪で斬首刑に処した。

⇒こんな記述は、江戸時代の刑事司法を冒涜する言いがかりです。(大田)

 これを弾みとして、彼は寛政の改革に乗り出したのである。」(237〜240)

(続く)