太田述正コラム#9073(2017.5.4)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その28)>(2017.8.18公開)

 「鈴木春信<(注87)(コラム#6211)>が錦絵の技術を確立したのは1765(明和2)年以降のことである。

 (注87)1725〜77年。「江戸神田白壁町の戸主(家主)で、平賀源内の友人。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%98%A5%E4%BF%A1

 それまで浮世絵といえば墨一色であり、紅色付けることで華やかさ出そうとした紅絵や、2〜3枚の色板を用いることによって紅、黄、翠などの色を刷り込んだ紅摺り絵など、商品価値を増すための試みは重ねられていたが、錦絵には12、13色が使われており、中には27〜28色使われた作品もある・・・。
 錦絵の登場によって浮世絵は飛躍的に豪華なものとなり、現在でも世界中で日本文化の粋と評価されている。
 そのスポンサーとして尽力したのが1600石取りの旗本・大久保甚四郎<(注88)>と1000石取りの阿部八之進<(注89)>であった。・・・

 (注88)大久保巨川(1722〜77年)。甚四郎は俗称で本名は忠舒(ただのぶ)。彼自身、俳人であると共に、「一流絵師であるといえる」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%B7%A8%E5%B7%9D
 (注89)「当時、陰暦のため月によって大(三十日)小(二十九日)があり、年によって順序が不定、なおかつ閏月(重複月)もあって月の大小を示す暦が必要であった。しかし、暦の販売は官許が必要であったので商店などでは年頭の挨拶代わりに得意先や知人に無料で配付していた。明和一、二(一七六五、六)年頃、二人は鈴木春信らに下絵を描かせ、版木の彫師、摺師を動員して精緻な絵暦を制作させ、のちに業者が版木を譲り受けて暦の文字を削除、浮世絵として販売し、流行するようになった。 」
http://www.shinjuku-hojinkai.or.jp/07yomoyama/yomo67.php

 とくに大久保は大身の家を捨てて、三浦屋という吉原遊郭の楼主となり、・・・遊女たちの細かい仕草などまで春信に観察させたという。
 ・・・歌川豊春風の美人画を自ら描いて話題を呼んだのが姫路藩主酒井雅楽頭の弟の酒井抱一<(注90)>である。・・・

 (注90)さかいほういつ(1761〜1829年)。「絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)・・・老中や大老にも任じられる酒井雅楽頭家、姫路藩世嗣酒井忠仰の次男(第4子)として生まれる。・・・酒井雅楽頭家は代々文雅の理解者が多く、兄・忠以も茶人・俳人として知られ、当時の大手門前の酒井家藩邸は文化サロンのようになっていた。・・・抱一の肉筆浮世絵は10点ほど現存するとされ、それらは馴染みの遊女を取り上げながらも気品ある姿で描<いている。その後、>・・・尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風<に>俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E6%8A%B1%E4%B8%80

 長州藩の11代藩主毛利斉元<(注91)>は・・・<画号を用いて>役者絵を描いた。

 (注91)もうりなりもと(1794〜1836年)。狂歌を好んだという話しかウィキペディアには出て来ない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%96%89%E5%85%83

 戯作者として知られる山東京山とも付き合いがあり、京山の次女を側室として2人の子をもうけている。
 また伊勢亀山藩6万石の藩主石川総佐<(注92)>(ふさすけ)は歌川豊国に入門し、・・・画号を与えられたという。

 (注92)1785〜1820年。「享和3年(1803年)、父の死去により家督を継[ぎ、第7代藩主となった。]・・・亀山藩・・・<の>船頭大黒屋光太夫・・・<が1791年にロシアから>帰国し・・・江戸に留め置かれたが、江戸の亀山藩邸を通じて<欧州>・ロシアの様子が伝えられた。総佐は光太夫がもたらした話に驚き、藩主自らフランス語の習得に勤め蘭学を学び、家中においても蘭学を学ぶことを奨励した。文化14年(1817年)には算術家代官を京都に留学させ<欧州>での天文学・算術、<支那>の天文学研究を命じた。また、軍制改革の必要性を感じ多数の兵士より武器の充実を目的に小銃隊の編成を改めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%B7%8F%E4%BD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%B7%8F%E7%A6%84 ([]内)

⇒石川総佐のケースは、まさに、武士にとって、文武両道がいかなるものであったかを物語って余りあるものがありますね。(太田)

 中には・・・越前福井藩主松平春嶽<(注93)(コラム#6581、8297)のように、>・・・私的に作らせた・・・春本を・・・親しい人への新年の贈り物とし<たという、>・・・風流な大名<もい>た。」(236〜237)

 (注93)まつだいらしゅんがく(1828〜90年)。徳川御三卿の田安家に生まれ、1838年に越前松平家を継ぐ。幕末四賢侯の一人と謳われている。元号の元治、明治の発案者。15代市村羽左衛門の祖父。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD

⇒イギリスや欧州における、王侯貴族で、(ヘンリー8世やマりー・アントワネットのように、音楽作品を残した人はいないでもありません(コラム#省略)が、)画家や文学者でもあった人物がにわかに思いつかないのですが、仮にそうだとすると、日本と違って、イギリスや欧州では、武力の担い手、ないし統治階層/階級、は、文武両道ではなかった、ということになりそうですが・・。(太田)

(続く)