太田述正コラム#9053(2017.4.24)
<ナチが模範と仰いだ米国(その11)>(2017.8.8公開)

 (6)米移民法

 「彼らは、いくつかの米国における法的諸革新に見入った。
 一つは、米議会が1921年に採用し、1924年に更に絞ったところの、移民諸割り当てであり、それらは、北欧及び西欧の「人種的に好ましい(desirable)」人々を大いに贔屓する一方で、(主としてユダヤ人達とカトリック達たる)東欧及び南欧から、及び、アジアから、の<移民>数を著しく減じるべく、構成されていた。」(A)

 (7)二流市民の概念

 「米国の投票諸権の扱いもナチの政綱(platform)にとって枢要だった。
 ヒットラーは、ドイツのユダヤ人達を、投票権及び他の諸権を持たない、<米>在住非市民達へと変えようとした。
 『我が闘争』の中で、彼は、市民達(citizens=Staatsburger)、国民達(nationals=Staatsangehorige)、そして、外国人達(foreigners=Auslander)、への三分類(tripartie division)を提案した。
 米国では、とりわけ、その大部分が南部では投票することができないところの、アフリカ系米国人達という、特定の民族諸集団(ethnic groups)に関して、かかる分類が既に存在していた。
 白人たる南部人達は、ナチ達がユダヤ人達を<そう>見たように、著者の言葉では、<アフリカ系米国人達は、自分達白人達に対して>「優位」を獲得するぞと脅していたところの侵攻者達たる「異邦人種(alien race)」である、と見ていた。
 ナチ法学者のハイリヒ・クリーガーは、1934年の論文の中で、米国が黒人達だけでなく、支那人達からも、投票諸権を奪ったことに、とりわけ興奮させられたと記している。
 もう一人の法律学者のデトレフ・ザーム(Detlef Sahm)<(注16)>は、米国のインディアン達の投票権の否定を称賛し、米国法の下で、支那人達のように、フィリンピン人達が非市民たる国民達であることを銘記した。」(F)

 (注16)不詳。

 ナチの法学者達は、米国における、1898年の米西戦争で奪取し占領したところの、プエルトリコとフィリピンの住民達のための第二級市民資格なる型式の整備についても、鋭敏に関心を抱いていた。
 米最高裁は、征服された人々の地位を「非市民たる国民達」とすることを支持(uphold)した。
 ドイツの法律学者達は、本件についての広範な文章群を書き上げ、それをナチ達は活用した。
 「このドイツの文章群の視点からは、米国は、縮小された市民としての諸権利に係る実験室だった」、と著者は記している。」(A)

 (8)婚姻禁止

 「著者は、異人種間結婚を処罰するナチの法律(statute)は、人種間婚姻を犯罪化したけれど、米国の法典から「直接的に複写されたわけではない」が、ドイツの法学者達の思考は、枢要な1934年の会議の間中米国法に頻繁に言及していたこと、及び、ナチの主要な法諸文面(texts)に広範に米国の材料(material)が含まれていること、が示されるところ、米国の事例によって「影響されて」いたことは明確だ、と結論付ける。
 もとより、「引用する米国の事例を与えられていなかった場合ですら」、ナチ達が、「混淆婚姻を犯罪化することに成功したであろう可能性を否定することは全くできない」が、と。
 著者は、「その諸典拠(sources)がやたらめったにあるところの、米国の諸範例とのナチの関わり(engagement)の証拠、を無視することを正当化はできない」、と記している。」(A)

 「最後に、ナチ達は、白人達と黒人達との間での結婚を禁止した30の<米>諸州の諸法を綿密に見つめた。
 このうち、ヴァージニア州の法が最後に廃止されたのだが、それは実に1967年にもなってからのことだ。
 誰が結婚できて誰ができないかを規定(define)するにあたって、米国での諸先例は、雑種の人々の地位を決定する方法に関して、(ナチ達にとって)役に立つ諸方法が含まれていた。
 白人の主人達と黒人の奴隷達との間の性的諸関係の故に生じ、米国の法体系に入ったところの、「雑種化(mongrelization)」の件(issue)は、部分的にユダヤ系であるドイツ人達の問題と取り組むにあたって、ナチ達にとって重要だった。
 米国における、人種混淆に反対する感情の突出性の一事例として、著者は、(ミシガン州選出の民主党の)セオドア・ビルボー(Theodore Bilbo)<(注17)>米上院議員が、1938年に、いかに「雑種化」が「白人文明を破壊」し得るかを愚痴った(railed)内容を引用する。

 (注17)1877〜1947年。「ミシシッピ州知事を2期(1916年〜1920年、1928年〜1932年)務めたのち、連邦上院議員(1935年〜1947年)。議事妨害と辛辣な発言が多く、激烈な議論を展開した彼の名は、白人至上主義の同義語と化した。人種差別主義者であることを誇り、黒人が劣っていると信じ、人種隔離を擁護し、クー・クラックス・クラン会員であった。・・・
 ピーボディー・カレッジ(テネシー州ナッシュヴィル)とヴァンダービルト大学法学部に通ったが、いずれをも卒業せず、その後教師として勤務した。1908年、テネシー州にて弁護士資格を取得」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AA%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%BBG%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%BC

 ビルボーは、「最も純粋な白人(Caucasian)の静脈に一滴の黒人(Negro)の血が加えられただけでさえ、彼の頭の創意に富んだ(inventive)天分(genius)は破壊され、その創造的(creative)能力(faculty)は麻痺してしまう」ことを心配した、と。」(A)

(続く)