太田述正コラム#9047(2017.4.21)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その22)>(2017.8.5公開)

 吉原遊郭の創設者は小田原の生まれで、<後>北条家の家臣だった庄司甚内とされている(後に甚右衛門と改名)。
 甚内は小田原城の落城後武士を捨て、江戸へ出て、現在の呉服橋の近くで売春宿を経営していたが、1590(天正18)年、家康が東国支配を命じられて江戸に入った時、遊郭の設置を願い出た。
 この時はかなわなかったが、1612(慶長17)年に再度出願して認可されたのである。<(注72)>・・・

 (注72)典拠が付されていないが、「慶長5年(1600)の秋、家康が関が原の戦いに出陣の際に甚内は、好機到来とばかり、街道沿いの鈴が森の八幡宮前に新しい茶店を構えて、町に分散していた遊女屋から美妓八人選び出し、赤い手拭いをかぶらせ赤い前掛けを締めさせて、家康の家来衆にお茶の接待をさせた。・・・そして翌年の秋、還りの時も、遊女達に同じ仕度をさせてお迎え申し上げたので、家康は殊のほか機嫌よく、甚内に褒美を賜わったという。・・・
 なお当時、<高>坂甚内という極悪人がいて、甚内は同名を嫌い、鈴が森での接待以後に甚右衛門と改名したと伝えられている。」
http://ameblo.jp/kagurawatanabe2266/entry-10150007793.html
 この甚内のはないが、「極悪人」の方の甚内のウィキペディアはある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9D%82%E7%94%9A%E5%86%85

 しかし開設当初の吉原を利用できるのは、大名や家老クラスの侍か、前述したような裕福な商人に限られ、庶民や下級の侍たちには高嶺の花だった。
 彼らが利用したのは、もっぱら「湯女風呂」である。
 湯女とは有馬温泉で人気を集めたあの湯女で、1590年、大阪に初めて進出し、翌年には江戸にも登場したのである。・・・
 吉原遊郭が日本橋から浅草の日本堤へ移転したのは1657(明暦3)年のことであった。
 この年正月、江戸三大大火の第1に挙げられる「明暦の大火」<(注73)>が発生、死者の数は10万人を超えた。

 (注73)「松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行し、1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行って、災害復旧に力を注いだ。松平信綱は米相場高騰を見越して幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡<すと共に、>・・・直接に商人から必要数の米を買い付けて府内に送ったので・・・米価も下がった。・・・小伝馬町の牢屋奉行である石出帯刀吉深は、・・・大火から逃げ果せたら必ず戻ってくるように申し伝えた上で、罪人達を一時的に解き放つ「切り放ち」を独断で実行した<ところ、>・・・結果的には約束通り全員が戻ってきた。吉深は・・・「死罪も含めた罪一等を減ずるように」との老中への進言を受け幕府は減刑した。以後この緊急時の「切り放ち」が制度化されるきっかけにもなった。・・・<また、>焼失した江戸城天守閣は保科正之が「再建を暫し延期する」と述べて遂に再建されなかった。・・・
 明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外に転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防衛のため千住大橋だけであ<った>隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など市街地を拡大。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。市区改正が行われた。防災への取り組みも行われた。火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。・・・幕府は、防火のための建築規制を施行した。耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB

⇒これも本筋から離れますが、江戸時代の武士たる行政官達の危機管理能力の高さ、と、彼らが、いかに、被治者達、とりわけ庶民達のことを考えた行政を行っていたのか、に改めて感銘を覚えます。(太田)

 以前から決定していた移転が、この火事によって、いっきに進捗したのである。
 その結果、日本橋にあった遊郭は元吉原、浅草は新吉原と呼ばれるようになったのである。・・・
 「明暦の大火」後の建築景気はそれまでの、そしてそれ以後の建築景気ともスケールがまったく違っていた。・・・
 庶民の懐もかつてないほど潤い、高嶺の花だった遊郭での遊びが現実のものとなったのである。

(続く)