太田述正コラム#9045(2017.4.20)
<ナチが模範と仰いだ米国(その9)>(2017.8.4公開)

 「ドイツにとっての<人種>「問題」の来歴は、米国のそれと比べると、大いに異なっていた。
 米国の政策の諸目的は、いわば、「奴隷制に由来していた(up from slavery)」。
 (全く自発的にではなく、強制的に移民となった)憐れむべき犠牲者達は最底辺階級(underclass)だった。
 他方、ユダヤ人達は、ドイツにおいて、中流から社会と政府の文字通りの諸頂点に至る、社会経済的階層を占めていた。
 上流階層からの除去は迅速かつ簡単(straightforward)に行われた。
 <そして、>1939年の東方諸征服<、すなわち第一次世界大戦、>の開始(advent)より前の、<ドイツ>領域からの除去に関しては、とりわけパレスティナへの移住を支援する、シオニスト達との諸段取り(arrangement)・・ハーヴァラ協定(Haavara Agreement)<(注15)>・・とあいまったところの、移住の奨励、という形をとった。

 (注15)ナチスドイツとシオニストたるドイツのユダヤ人達の間の1933年8月25日の協定(「ハーヴァラ」はヘブライ語で「移転」を意味する)。
 「この協定は、独シオニスト連盟(Zionist Federation of Germany)、及び、(ユダヤ機関(Jewish Agency)の下にあった)アングロ・パレスティナ銀行(Anglo-Palestine Bank)、と、ナチスドイツの経済当局、との間の3ヶ月に及ぶ協議を経て成案に至ったものだ。
 これは、1933〜39年の間に、約60,000人のドイツのユダヤ人達をパレスティナに移住させることを可能にした諸要素中の、主要な一つの要素となった。
 この協定は、新しいナチ体制の下で反ユダヤ的迫害から逃れたユダヤ人達が自分達の諸資産の幾許かの部分をパレスティナ英委任統治領内の安全地帯に移転することを可能にすることを企図したものだった。
 それは、出発する前に差し出すことを強いられていたところの、諸所有物や諸資産の幾許かを彼らが回復することを可能にすることで、逃げ出すユダヤ人達に幾許かの安堵を提供した。
 この協定は、当時論争を引き起こし、(例えば修正主義シオニストの指導者のゼエヴ・ジャポティンスキー(Ze'ev Jabotinsky)のような)シオニスト運動の内側、及び、外側、双方の多くのユダヤ人指導者達から批判された。・・・
 <なお、この協定>は、ナチ達からは、1933年の反ナチ・ボイコット・・それは欧州のユダヤ人達の間で大きな支持を得ており、ドイツ国家によって、脆弱なドイツ経済に対する潜在的脅威であると考えられていた・・を打ち破る手段と見られていた。
 ヒットラー個人は、この協定の交渉には関与しておらず、この協定に対する彼の見解は、時間の経過とともに変遷したように見受けられる。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Haavara_Agreement
 ジャポティンスキー(1880〜1940年)「は、トランスヨルダン王国を作ろうとする<英国>の勧めを受け入れバルフォア宣言での領域を狭めてヨルダン川より西側でユダヤ人民族郷土を作ろうとしていたシオニスト運動家に対し、これを「修正」してヨルダン川の両岸にまたがる大ユダヤ国家の建設を目指・・・した。彼の主な目標は<英>帝国の助けと援助による近代的なユダヤ国家の建設だった。彼の哲学は経済と社会の方針を<欧州>の中流階級の理想に当てはめた点で、社会主義<の方を>向いていた労働シオニスト達とは<対蹠的>だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9C%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

⇒本筋から離れますが、対象となったユダヤ人達の数こそ違え、後のホロコーストだけではなく、この領域外移住にも、ヒットラーが個人的に関わっていなさそうであることは、何度も申し上げているところの、ナチによるユダヤ人迫害は、ヒットラー個人の意思というよりは、当時のドイツ民族多数の声に(内心、乗り気ではなかった)ヒットラーが従っただけ、との私の指摘を補強するものです。(太田)

 後者<、すなわち、地域からの除去、>については、米国法においては、いかなる意味でも重視されていなかったことから、著者はそれに全く言及していない。」(J)

 「米国は、ユダヤ人達を迫害しなかった・・いや、あるナチ法律家が1936年に言明したように、米国は、「今までのところ」まだ迫害していなかった・・けれど、米国本体とその諸植民地の全域に散在していたところの、支那人達、日本人達、フィリピン人達、プエルトリコ人達、そしてアメリカ原住民達、等の、ユダヤ人以外の少数民族諸集団のために、夥しい、第二級市民資格を作り出していたのだった。

⇒ここで、「1920年代には米国におけるユダヤ人差別は先鋭化し、ユダヤ人の移民を阻止するための差別的な新移民法が1924年に制定され、またこの頃、多くの名門私立大学において、(大学財政に貢献できない等の理由から)ユダヤ人に対する入学枠制限(quota system)が行われた」(コラム#486)ことへの部分的言及すらないのは理解に苦しみます。(太田)

 第二級市民資格についての米国の諸形態は、ナチの政策決定者達にとって、彼ら達自身の第二級市民資格の諸形態をドイツのユダヤ人集団のために作り出(craft)そうとするにあたって、大いなる関心事項だった。」(L)

(続く)