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太田述正コラム#9037(2017.4.16)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その20)>(2017.7.31公開)

 「三浦浄心<(注65)>の『慶長見聞集』による、江戸に最初の銭湯が開業したのは1592(天正20)年だったという。

 (注65)1565〜1644年。「相模三浦氏一族出身で、後北条氏に仕え小田原征伐等で戦った後、故郷三浦郡に落ち延びた。その後、江戸に出て出家し、自らの見聞等を仮名草子『慶長見聞集』『北条五代記』等に書き残した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%B5%84%E5%BF%83

 その前年、秀吉によって東国支配を命じられた徳川家康は初めて江戸に入り、江戸城の改築に着手したが、それを見て江戸の将来性に着目した小商人も相当数に上った。
 その中に銭湯経営を思い立った男も交じっていたのである。
 同書には・・・「あらあつの雫や、鼻がつまりて物もいはれず、煙にて目もあかれぬ」と、客が苦情をこぼしたことが記述されているが、これはこの風呂が蒸し風呂式<(注66)>であったことを示している。

 (注66)「もともと日本では神道の風習で、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる禊(みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている。
 仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『仏説温室洗浴衆僧経』と呼ばれる経典も存在し、施浴によって一般民衆への開放も進んだといわれている。特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。風呂は元来、蒸し風呂を指す言葉と考えられており、現在の浴槽に身体を浸からせるような構造物は、湯屋・湯殿などといって区別されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82#.E8.92.B8.E3.81.97.E9.A2.A8.E5.91.82

 蒸し風呂とは部屋の片隅熱した石を置いて、時おり、これに水をかけて蒸気を出しながら入るシステムであった。
 「煙にて目もあかれぬ」というのは石を熱するために木材などの燃料を焚いたため、部屋のなかに煙が充満していたのである。
 <しかし、>この銭湯<の>・・・寿命は長くなかったらしい。
 ・・・それから20数年後には江戸の湯屋は約100軒に達したと想像されているが、それらはいずれもざくろ口という江戸時代の銭湯に共通する造りだったからである。
 ざくろ口を設けていることは、その銭湯が沸かし湯であることを示していた。
 ざくろ口とは洗い場から浴室への入り口をいう。
 両者の境は板壁で仕切られていたが、その下の開いた部分がざくろ口で、浴客はそこをくぐって、向こうの浴槽に入るのだが、床からの高さが1メートルに満たないところがほとんどだったから、身をかがめて入る必要があったという。・・・
 そのような装置を設けた理由は沸かした湯が冷めないようにという配慮によるものだったが、その壁がさまざまなトラブルのもととなった。
 ざくろ口の内側の浴槽には明かり取りの窓がないため(あっても板格子がはめてあって、ごくわずかしか明かりが入ってこないため)、日中でも真っ暗だった。
 このため浴槽の中で殺されても誰も気づかず、ざくろ口の外に出た客が自分の手拭いが血で真っ赤に染まっていたことで、初めて異変に気づいたこともあった。
 また浴槽の中で放尿する客は跡を絶たなかったし、大便が浮いていることもしばしばあったという。<(注67)>

 (注67)「後に、客が一度使った湯を再び浴槽に入れるという構造になり、『湯屋漫歳暦』には「文政(年間)の末に流し板の間より汲溢(くみこぼ)れを取ることはじまる」との記述がある。」(上掲)

⇒これでは、銭湯に体を汚しに行くようなものだったという印象さえ受けますね。
 但し、「注67」のウィキペディアの記述は間違いではないでしょうか。↓
 「江戸の庶民が銭湯で体を洗うために使ったのは、お米を精米したときに出来る「米ぬか」だったのです。彼らがお風呂に行くときには、自前の米ぬかを袋に入れてもっていくか、袋だけを持って行って銭湯の番台で米ぬかを買って使っていました。米ぬかを使って体を洗うことで、体の汚れが落ちるだけではなく、肌をしっとりとさせる効果もあったようです。・・・
 銭湯で体を洗う人がみんな米ぬかを使うわけですから、お風呂屋さんには使い終わった米ぬかが大量に集まることになります。実は江戸時代には、これらの銭湯から出る米ぬかを買い取る商人がいたのです。その米ぬかを農家が買って畑の肥料にしていました。」
http://www.edojidai.info/uso-hontou/sekkenn-sennzai.html (太田)

 江戸の銭湯はその誕生以来混浴であった。
 日本では歴史が始まって以来、温泉に入ったり、水浴びなどをするときはずっと混浴だったから、ほかの選択肢はなかったのである。・・・
 平戸藩主・松浦静山<(注68)>(まつらせいざん)の『甲子夜話』は彼が引退した後、1821(文政4)年から1841(天保12)年までの20年間にわたって市井のできごとを帰路した随筆集だが、その中に「男湯女湯の事」という一節がある。・・・

 (注68)松浦清(1760〜1841年)。「松浦氏の当主のほとんどは二字名であったが、有職故実を重んじる清は、代々一字名を特徴としていた嵯峨源氏の先祖にあやかって再び一字に戻した・・・<。彼は、>明治天皇の曽祖父にあた<り、>・・・心形刀流剣術の達人であったことでも知られる。・・・
 清が藩主となった頃、平戸藩は財政窮乏のために藩政改革の必要に迫られていた。このため清は『財政法鑑』や『国用法典』を著わして、財政再建と藩政改革の方針と心構えを定めた。そして経費節減や行政組織の簡素化や効率化、農具・牛馬の貸与制度、身分にとらわれない有能な人材の登用などに務めている。また、安永8年(1779年)藩校・維新館を建設して人材の育成に務め、藩政改革の多くに成功を収めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%B8%85

 銭湯では暗いことをいいことに、あるいは夜中などには、男女がセックスするシーンがあちこちでみられた<、と。>」(190〜194、196)

⇒このあたりは、日本の専売特許では全くありません。↓
 「地中海世界では・・・古代ローマの公衆浴場<以来、>・・・13世紀頃までは・・・<都市>住民は週に1・2度程度、温水浴や蒸し風呂を楽しんだといわれる。しかし、男女混浴であったため、みだらな行為や売春につなが<っていた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82#.E8.92.B8.E3.81.97.E9.A2.A8.E5.91.82 (太田)

(続く)

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