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太田述正コラム#9025(2017.4.10)
<ナチが模範と仰いだ米国(その4)>(2017.7.25公開)

 「本当のところは、20世紀初において、米国は、その活発かつ創造的な法文化でもって、人種主義的立法に関して世界をリードしたのだ。
 それは、黒人差別制度(Jim Crow)<で悪名高い、米>南部にあてはまるだけではない。
 それは国家全体のレベルにおいてもあてはまるのだ。
 米国は、世界中の人種主義者によって称賛された人種に立脚した移民法を持っていたからだ。
 そして、ナチ達は、今日の欧州における、彼らの右翼たる承継者達(、及び、多くの米投票者達、)同様、移民が突きつける諸危険に憑りつかれていた、ときていた。
 米国は、その反異人種婚姻諸法の過酷さに関し、世界の中で突出していた。
 それら諸法は、異人種間の諸結婚を禁止しただけでなく、人種間カップル達に厳しい刑罰でもって脅しもしていた。
 再度指摘するが、これは<米>南部だけの法ではなかった。
 それは、米国中で見出すことができたのだ。・・・
 それだけではなく、米国は、1918年より後において、ダイナミックで近代的で豊かな、世界最大の経済大国であり文化大国になっていた。
 ヒットラーとその他のナチ達は、米国を羨み、どのように米国人達がそれを成し遂げたのかを学ぼうとした。
 彼らが、米国の人種主義こそ米国を偉大な存在に押し上げたものである、と信じたことを、それほど驚いてはいけないのだ。」(L)

 「ナチ達は、米国の人種法の中身について入れ込んでいただけではなく、そのコモンロー的基盤も抱懐していた。
 戦時中に隠れていて生き残ったところの、ドイツの右翼のユダヤ人法学教授のエリッヒ・カウフマン(Erich Kaufmann)<(注6)>は、1908年に、米国の法的諸決定が、その「生き生きしていて直接的であるという豊かさ(wealth of life and immediacy)」によって、ドイツの法律学(jurisprudence)を方向付けている(guide)融通が利かない(rigid)市民法法典(civil law code)とは対蹠的に、「米国の人民の生き生きした法的諸直感」に応えている、という形であること(way)を称賛した。

 (注6)1880〜1972年。ハイデルベルク大とフライブルク大で、ゲオルグ・イエリネック(Georg Jellinek)の下で学ぶ。
https://de.wikipedia.org/wiki/Erich_Kaufmann_(Jurist)
 イエリネックは、「19世紀ドイツを代表する公法学者。・・・父は・・・著名な律法学者(改革派のラビ)でユダヤ教徒であったが、彼自身はキリスト教に改宗した。・・・1900年に刊行した『Allgemeine Staatslehre』(邦題『一般国家学』)は日本の天皇制限主権論(いわゆる天皇機関説)にも影響を与えている。なお晩年のハイデルベルク時代にケルゼンや上杉慎吉が彼のもとで学んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AF

⇒本筋を離れますが、私のように1960年代から1970代にかけて法学部で学んだ者であれば、イエリネック・・当時はイエリネクと呼ばれていた・・を知らなければもぐりということになりかねませんが、彼がユダヤ人であったことは、今、初めて知りました。
 ドイツ圏にいたユダヤ人を物理的に一掃してしまった、ナチ期のドイツの蛮行に改めて怒りを覚えるとともに、上澄みの相当部分を失った戦後ドイツが、依然として、欧州の政治的・経済的指導者国であり続けていることが、不思議に思います。(太田)

 その30年後に、カウフマンのヒントはナチ達によって取り上げられ、人民の強力な諸直感を体現しているコモンローを、彼らは、人種的諸偏見を立法化する方法として受け止めた。
 ユダヤ性についての確かな生物学的定義などないことを彼らは認めつつも、にもかかわらず、人民の反ユダヤ的諸本能は正しい、としたのだ。
 最も急進的かつ容赦なきナチの法学者達の一人であった、ローラント・フライスラー(Roland Freisler)<(注7)>は、次のように記している。
 
 (注7)1893〜1945年。「ドイツの法律家、裁判官。第二次世界大戦中、・・・反ナチス活動家を裁く特別法廷「人民法廷」の長官を務め、・・・数千人に死刑判決を下した。・・・
 プロイセン王国<に生まれる。>・・・1912年にイェーナ大学で法学の勉強を始めたが在学中に第一次世界大戦が勃発して軍に志願、士官候補生、次いで少尉として従軍し、1915年にロシア軍の捕虜となってシベリアの捕虜収容所に送られている。収容所内でうまく立ち回り、1917年にロシア革命が起きた後は、ウクライナでボリシェヴィキの政治委員を務めていた。この共産主義者だったという前歴は、後のナチ党政権下で彼に対する陰口のネタになった。終戦後の1920年、ドイツに帰還。イェーナ大学に復学し、1922年に法学博士号を取得。・・・<その後、>ナチ党顧問弁護士<になった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC

 私は、裁判官は、全員、ユダヤ人達を、外見は白いけれど有色人達に属するものと見なす、と信じる。
 …よって、私は、これらの米国の諸州においてそれが用いられているのと同様の原初性(primitivity)でもって先に進むことができる、という意見だ。
 ある州は、単に「有色の人々(colored people)」と言う。
 かかる手順(procedure)は粗っぽい(crude)かもしれないが、それで十分なのだ(suffice)。

(続く)

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