太田述正コラム#9023(2017.4.9)
<2017.4.8東京オフ会次第(その2)/下川耿史『エロティック日本史』を読む(その16)>(2017.7.24公開)

O:ところで、次回のオフ会で朝鮮論をやる予定だが、残された懸案を思いつかない。
 私にとって、どこかひっかかる、腑に落ちない、というような事柄がたくさんあって、コラムを書き始めてから、一つ一つつぶしてきたところ、ついにそういう事態になってしまったわけだ。
 何かないだろうか。
B:人間主義論をぜひまとめて欲しい。
O:それは、誰かにやってもらうとありがたい。
 べじたんさんが活動を続けていてくれたら、今頃、人間主義の項は相当整備されていたはずだが、活動を停止して久しいのはまことに残念だ。
 なお、人間主義に関して残された重大な懸案がある。
 それは、平和志向を核とする人間主義が、狩猟採集社会において普遍的なものだったのか、それとも、日本の縄文社会だけ・・他にあってもいいのだが・・の例外的なものだったのか、という問題だ。
 しかし、これは、私が判断できるだけの材料がない(学術研究がなされていない)のでどうしようもない。

(完)
-------------------------------------------------------------------------------

--下川耿史『エロティック日本史』を読む(その16)--

 「<広義の戦国時代に>、庶民の間で心の救済策として広がったのが「踊り念仏」であった。
 踊り念仏は時宗の開祖である一遍<(注51)>上人が1279(弘安2)年に創始したもので、1295(永仁3)年に成立した<ところの、>・・・源有房<(注52)が>・・・作者とされる・・・『野守鏡(のもりのかがみ)』<や>・・・<そ>の翌年に成立した『天狗草紙』という絵巻物<の記述から>、・・・オージー・パーテイー(乱交パーティー)をもって、宗教的な解脱の境地とし<ていたことが分かる。>

 (注51)1239〜89年。「時宗の開祖。・・・法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗・・・を学ぶ。・・・和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり・・・、官僧ではなく私度僧から聖(ひじり)に至る民間宗教者の系統に属する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%81%8D
 (注52)1131?〜?年。「妻は平忠盛の娘及び信西の娘。・・・正四位下左近衛中将。・・・和歌や笙に優れ<ていた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%9C%89%E6%88%BF

⇒本筋から少し離れますが、浄土教系
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%95%99
の、良忍は領主の、法然は押領使の、親鸞は皇太后宮職の、一遍は豪族(武将)の、それぞれ息子であったところ、同じ鎌倉仏教・・但し、良忍は平安時代末期の人・・中の禅宗系
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85
を見ても、道元は公卿の家の生まれでしたし、栄西は父は大きな神社の権禰宜であったものの曽祖父は薩摩守でしたので、ここまでは全員弥生系です。
 鎌倉仏教の巨人達の中で、縄文系と言えるのは、自ら「賎民が子」「貧道の身と生まれ」と称した日蓮くらいです。(以上、各人のウィキペディアによる。)
 私見では、浄土教系と禅宗系の巨人達は、弥生モードにおける個人の心の救済のために、いかにも弥生系らしく、支那仏教の再継受を試みた人々であったのに対し、目的こそ個人の心の救済でありつつも、日蓮は、縄文系らしく、仏教を標榜こそしていたけれど、実は、人間主義教とでも称すべき新興宗教を興した(注52)のです。(太田)

 (注52)日蓮の、通説的な日本仏教史上の「位置づけ」については、日蓮のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
の「立宗感」のところ、及び、法華宗のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AE%97
を参照のこと。

 ちなみに、幕末の歌人で随筆家の西田直養<(注53)>(なおかい)・・・によれば、この頃には乱交のことを「念仏講」と称するようになったという。」(169〜)

 (注53)1793〜1865年。豊前小倉藩藩士たる国学者。「勘定奉行・・・,元締役,町奉行,寺社奉行取計,近習番頭を歴任,支藩小倉新田藩篠崎侯の傅となり,京都大坂の留守居役を勤めた。藩の佐幕体制を嘆き,元治1(1864)年,長州藩が英米仏蘭の連合艦隊によって下関を攻撃されたとき,自藩が傍観していたことに憤激し,絶食をもって死に至った。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E7%9B%B4%E9%A4%8A-17378

(続く)