太田述正コラム#8989(2017.3.23)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その8)>(2017.7.7公開)

 「日本で初めての春画は法隆寺の天井裏に描かれていた墨絵<(注20)>だといわれる。法隆寺は607(推古天皇15)年に創建されたが焼失、700年頃に再建されたと推測されているから、この春画は再建工事に携わった大工が残したというわけである。

 (注20)例えば、この二つ。↓
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%EF%BC%9B%E5%A4%A9%E4%BA%95%E8%A3%8F%EF%BC%9B%E5%A2%A8%E7%B5%B5&hl=ja&rlz=1T4GUEA_jaJP671JP672&tbm=isch&imgil=zzGGugPJ4PKrsM%253A%253Bn2aHBL55p9sAwM%253Bhttps%25253A%25252F%25252Ftwitter.com%25252Faphros67%25252Fstatus%25252F405691871776604161&source=iu&pf=m&fir=zzGGugPJ4PKrsM%253A%252Cn2aHBL55p9sAwM%252C_&usg=__Eqzw7wTt0aTSNsuSiWarrNLEh-A%3D&biw=1644&bih=902&ved=0ahUKEwigz_n_qezSAhWMxrwKHWwgAyMQyjcILQ&ei=VpfTWKDMKYyN8wXswIyYAg#imgdii=K32zGbG2VN18DM:&imgrc=zzGGugPJ4PKrsM:&spf=202
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%EF%BC%9B%E5%A4%A9%E4%BA%95%E8%A3%8F%EF%BC%9B%E5%A2%A8%E7%B5%B5&hl=ja&rlz=1T4GUEA_jaJP671JP672&tbm=isch&imgil=zzGGugPJ4PKrsM%253A%253Bn2aHBL55p9sAwM%253Bhttps%25253A%25252F%25252Ftwitter.com%25252Faphros67%25252Fstatus%25252F405691871776604161&source=iu&pf=m&fir=zzGGugPJ4PKrsM%253A%252Cn2aHBL55p9sAwM%252C_&usg=__Eqzw7wTt0aTSNsuSiWarrNLEh-A%3D&biw=1644&bih=902&ved=0ahUKEwigz_n_qezSAhWMxrwKHWwgAyMQyjcILQ&ei=VpfTWKDMKYyN8wXswIyYAg#imgrc=zzGGugPJ4PKrsM:&spf=192

 続いて701(大宝元)年に「大宝律令」が制定されると、医学を志す者は「偃息図(おそくず)」<(注21)>を学ぶことが義務づけられた。これは鍼灸のツボなどを記した「人体解剖図」だったが、全裸の男女像に初めて接した日本では、性的な意味を持つ絵と理解され、「偃息図」が春画<を>意味するようになった。・・・「偃息図」という言葉は以後1000年以上、江戸時代の終わりまで生き続けた。・・・

 (注21)「日本での春画の始まりは<支那>の医学書とともに伝えられた房中術の解説図だと思われる。日本では平安時代初期から偃息図(えんそくず、おそくず)、またはおそくずの絵(おそくづのゑ)と呼ばれる性的題材を描いた絵画があったとされているが(『恒貞親王伝』『古今著聞集』第十一「画図」など)、もともと「偃息図」という言葉自体が<支那>からきたものである(「偃息」(えんそく)とは、横に寝転んで休むこと、男女が同衾することである)。なお、『嬉遊笑覧』は「おそはたはれたること、くづは屑なるべし、陽物をいふに似たり」と解釈する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%94%BB

 本格的な春画集である・・・別名『灌頂絵巻』とも呼ばれている・・・『小柴垣草子』<(注22)>が誕生したのは平安時代も終わりに近い1172(承安2)年だった。

 (注22)「『小柴垣草紙』は詞書の長短で二種類に分類できる。一つは斎宮と平致光の一夜の逢瀬を濃密な性表現によって描写した後、この密通が発覚して斎宮群行が取りやめられた結末で終わる短い内容の伝本群。もう一つは前者の内容に加えて、逢瀬の後に再会し、噂を耳にした女房も加わり、最後は性行為の有り難さについて宗教的言説を用いて解説した、やや長い内容を持った伝本類である。順序としては、まず短文系統が成立し、次いでこれを増補する形で長文系統が現れたと見られる。・・・<このように、>長文系統の話末に独自の宗教観に基づく評釈があることから、宗教的な極意伝授を意味する『灌頂巻』と呼ばれることもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9F%B4%E5%9E%A3%E8%8D%89%E7%B4%99

⇒灌頂という仏教用語が用いられたのは、歓喜仏で知られる、異端的仏教の時輪タントラ(Kalacakra tantra=カーラチャクラ・タントラ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E8%BC%AA%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9
由来の発想なのでしょうが、本来的にセックス志向的である神道の用語を用いて欲しかったものです。(太田)

 986(寛和2)年6月、宮廷にとって思わぬスキャンダルが派生した。花山天皇の娘で、伊勢神宮の斎女となるため、京都の野宮神社で斎戒沐浴の生活を送っていた済子(なりこ)が、前日から済子の警護役として派遣されていた平致光(たいらのむねみつ)と密通したことが発覚したのだ。・・・

⇒この事件については、「日本紀略、本朝世紀、十訓抄によれば野宮で滝口武者平致光に犯され、それが露見した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
、と、強姦であったとされていますが、「性犯罪歴のある人物の実の子どもが性犯罪を犯す確率は、平均の5倍に上る」
http://news.mikimedia.net/entry/2015/04/14/120533
という研究もあるところ、あの「性犯罪者」の花山天皇の娘だった済子の方から誘ってこの「性犯罪」を犯した可能性は否定できません。(太田)

 この事件を絵巻物にしたのが、『小柴垣草子』である。浮世絵研究の第一人者といわれたリチャード・レインは・・・「この有名な絵巻の原本は建礼門院(平清盛の娘)が1172(承安2)年、高倉帝と婚約した時に彼女の伯母から贈られたものといわれ<(注23)>、秘画が花嫁の性の手引書として利用された最初の例」であり、「真に好色的、催情的といえる絵巻物の最初」と指摘している。」(111〜113)

 (注23)「彼女の叔母にあたり後白河天皇の女御だった平滋子が贈ったとする説がある。後白河天皇は、絵巻物好きで好色な人物だったことを考えると、小柴垣草紙も後白河の意向で制作された可能性が高い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9F%B4%E5%9E%A3%E8%8D%89%E7%B4%99 (前掲)

⇒後白河天皇/法王が「偉大」であったことも衆目一致するところですが、彼が好色であったことは、当然、と言うべきか。(太田)

(続く)