太田述正コラム#8979(2017.3.18)
<下川耿史『エロティック日本史』を読む(その5)>(2017.7.2公開)

 「多淫・好色という側面で、最初に名を遺した権力者は桓武天皇である、・・・
 大宝律令では皇后のほかは妃(ひ/きさき)2人以内、夫人(ぷにん/おおとじ)3人以内、嬪(ひん/みめ)4人以内と定められていたが、それだけでは足りなくなり、超過した「キサキ」の称号として「女御」という地位が創出された<(注7)>。

 (注7)「その位は次第に高まり、平安時代中期以降、・・・位は、皇后・中宮につぐ<とされるに至り、>・・・皇后は女御から昇進する慣例となった。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%BE%A1
 ちなみに、「長保2年(1000年)<の一条天皇の時から、>・・・1人の天皇が2人の皇后を持つことができる先例が開かれることになった。以後、皇后の定員は2名となり、一方を皇后宮、他方を中宮と呼ぶ慣行が確立した。皇后宮も中宮もその本質はあくまで皇后であり、両者の間に優劣や上下関係はない。ただ、班列(宮中の席次など)は皇后宮、中宮の順とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%AE

 第52代の嵯峨天皇<(注8)>は桓武天皇の第2皇子で・・・こちらは父親の桓武天皇よりもさらに派手で、・・・このため、・・・さらに下の階層出身の女性が「更衣」<(注9)>という名称で呼ばれることになった。・・・

 (注8)786〜842年。天皇:809〜823年。「空海、橘逸勢とともに三筆の一人」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
 (注9)「更衣は天皇の居室・寝室に立ち入ることが可能なことから后妃としての要素を持つようになり、嵯峨天皇の時代に女御のうち下位のものを指す呼称となった。通常は四位・五位の位階を授けられた女性が更衣となり、その所生の子は臣籍降下の対象とされた。定員は10名・・・とも12名・・・とも言われているが、実数は少ない。通常は出自が低い女性が更衣とされていたが、稀に公卿クラスの娘が更衣になる場合もあり、その場合には後に女御や中宮に進むことがあり、その所生の子も必ずしも臣籍降下の対象とはされなかった。・・・後三条天皇の時代まで史料的には存置していたとみられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B4%E8%A1%A3_(%E5%BE%8C%E5%AE%AE)
 後三条天皇(1034〜73年。第71代天皇:1068〜73年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87

 当時は天候不順で農業の出来が極端に悪化していたこともあり、子どもの処遇が国家の財政をおびやかすほどであった。・・・その立て直しのため、8人の子どもに「源」の姓を与えて臣籍降下させた。・・・
 自分の即位式が始まる直前に、参列者の女性の中に美人を見つけ、その場で、それこそみんなの見ている前で関係した・・・第65代花山天皇<(注10)>・・・や、自分が関係した女を次々に臣下に下げ渡した・・・第72代白河天皇<もいる。>・・・

 (注10)この途方もない挿話の典拠を探して、下掲に遭遇。
 花山院、と、その父親で精神障害者であったらしい冷泉院[(第63代天皇)]、の間の微笑ましい贈答歌の話等も出て来て興味深い。
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/nob/kazanin/kazanin-1.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%A4%A9%E7%9A%87 ([]内)

 白河天皇の場合、「両刀使い」としても知られ、近臣として権勢を誇った<人々>・・・はいずれも男色関係ににおける愛人であった。・・・白河天皇が法王になってから創設した北面武士<(注11)>(上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと)・・・が男色のために創られた部署であることは明らかであった。」(95〜97)

 (注11)「11世紀末に白河法皇が創設した。・・・当初の北面は近習や寵童(男色の相手)など、院と個人的に関係の深い者で構成されていたが、院の権勢が高まると摂関家に伺候していた軍事貴族も包摂するようになり、その規模は急激に膨張した。新たに北面に加わった軍事貴族は、それぞれがある程度の武士団を従えた将軍・将校クラスであり、元永元年(1118年)、延暦寺の強訴を防ぐため・・・派遣された部隊だけで「千余人」に達したという・・・。従来、院の警護を担当していた武者所は機能を吸収され、北面武士の郎党となる者も現れてその地位は低落した。また白河法皇は北面武士を次々に検非違使に抜擢し、検非違使別当を介さず直接に指示を下したため、検非違使庁の形骸化も進行した。平正盛・忠盛父子は北面武士の筆頭となり、それをテコに院庁での地位を上昇させていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%9D%A2%E6%AD%A6%E5%A3%AB
 武者所についてだが、「寛和元年(985年)に円融上皇の御所に院武者所を設けて10名を配備したのが最古の記録である。・・・上皇の警備にあたる他、治安維持のために派遣される事もあった。・・・院政の衰退とともに廃絶する。・・・後醍醐天皇の建武政権の成立後に復活し・・・建武政権崩壊後も、南朝・北朝のそれぞれに武者所が設けられていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E6%89%80

⇒そもそも、検非違使は「弘仁7年(816年)頃に設置された令外官であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E9%9D%9E%E9%81%95%E4%BD%BF
ところ、北面武士はその更なる令外官ということになりますが、その起源が男色にあったとは、傑作ですね。
 ところで、登場した色好みの諸天皇中、「古今・後撰に次ぐ第三番目の勅撰和歌集で、いわゆる「三代集」の最後にあたる・・・拾遺和歌集<は、>・・・花山院の親撰もしくは院が・・・撰進させたといわれてきた」こと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%BE%E9%81%BA%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
くらいしか事績がないものの、後は、著名な天皇揃いであることは偶然の一致ではないでしょう。
 歴史を動かすのも芸術を生み出すのも、元はと言えば性衝動ですからね。(太田)

(続く)