太田述正コラム#8961(2017.3.9)
<夏目漱石は縄文モード化の旗手だった?(その6)>(2017.6.23公開)

 文芸批評家で都留文科大学教授の新保祐司は、昨年3月14日付の産経電子版に掲載されたコラムの中で、『こころ』について、次のように記しています。
 (同コラムには、鴎外にも言及があり、その部分に私は大いに異論があるのですが、話が拡散するので取り上げません。)↓

 「・・・『こころ』の結末にいたって、主人公の「先生」は「夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました」という。そして、「自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積りだ」と妻に語る。「それから約一か月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だと言いました」と書かれている。・・・
 漱石・夏目金之助は、慶応3(1867)年、ということは明治維新の年の1年前に生まれている。まさに明治の子であり、近代日本の文明開化の中で成長し、生きたわけである。幼少からの深い漢学的教養という台木に、西洋文学(漱石の場合は、英国文学)が接ぎ木された。「明治の精神」の悲劇的な相貌(そうぼう)は、この精神における接ぎ木から来ているが、そのような近代日本の悲劇については、明治維新から半世紀ほどたった明治44(1911)年に行った『現代日本の開化』という講演で漱石自身が鋭い認識を示している。・・・」
http://www.sankei.com/column/news/160314/clm1603140004-n1.html
 
 ここに出てくる『現代日本の開化』も有名なのですが、次のような内容のものです。
 少し、長めに引用しておきます。↓

 「「できるだけ労力を節約したいという願望から出てくる種々の発明とか器械力」や「できるだけ気儘に勢力を費やしたいという娯楽」の両面から「開化」は進んできた<(注1)>が、開化が進めば進むほど競争がはげしくなって生活は困難になっている現状が述べられる。また西洋の開化は内発的であるが、日本の現代の開化は外発的<(注2)>で、「鎖港排外の空気で二百年も麻酔したあげく突然西洋文化の刺戟に跳ね上っ」て、外から無理押しに押されて否応なしもたらされたものであることが述べられる。現代日本が置かれた状況によって日本の開化が、「ただ上皮(うわかわ)を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものだ」という認識が述べられる。

 (注1)漱石は、アングロサクソン文明特有の反産業主義(コラム#81)を(、アングロサクソン文明と欧州文明の違いを無視して「西洋」と一括りにしている上に、)開化と同一視してしまっており、誤っている。
 この根っこの部分の継受は諦め、それとは切り離して、アングロサクソン文明の諸成果物・・蒸気機関等・・を継受しようとして、その他の諸文明は悪戦苦闘しつつ現在に至っているわけだ。
 (注2)従って、ここも、漱石は、「日本の現代の開化は外発的」とすべきではなく、「日本を含む諸文明の現代の「開化」は外発的」といった表現にすべきだった。

 「<日露>戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前(ぜん)申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。<こんな風に>苦い真実を臆面なく諸君の前にさらけ出して<しまったことについて、>、・・・重々御詫を申し上げます・・・」・・・。
 この講演の内容は『三四郎』(1908年)の、「これからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した三四郎に対して広田先生が「滅びるね」と言う場面や、『それから』(1908年)の「無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ」という代助の発言などとともに漱石の時代認識を論ずるのに用いられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%96%8B%E5%8C%96

 私は、日本が「上皮を滑って行」くのではなく「内発的に変化して行くが好」い、の意味を、これまで、(とは言っても、漱石の長編小説のほぼ全てやこの『現代日本の開化』を読んだのは中高時代なので大昔になりますが、)「日本は内発的に欧米化・・英留した1988年より後であればさしずめアングロサクソン化・・して行くが好い」、と受け止めていたのですが、小森の今回の論考に接したことで、そうではなく、「日本が内発的に、(私の言葉で言えば、)縄文モードに回帰するという変化をして行くが好い」、と受け止めるべきであったこと、に気付かされたのです。
 この私の、漱石理解の転換を後押ししてくれたのが、一つは、「Kの自殺の理由の根幹は「失恋」でも「先生の裏切り」でも「喪失による寂しさ」なんかでもありません。・・・K<と先生>の自殺の理由は一言であらわすと<自分達2人とも求道者であるというのに恋という煩悩に惑わされてしまったことに対する>「断罪」です。」
http://www.sekaihaasobiba.com/entry/2014/09/07/183018
という『こころ』の評論を見出したことであり、もう一つは、漱石が作り出し、人口に膾炙しているところの則天去私(注3)、という言葉の再発見です。

 (注3)「【則天去私】の意味--小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きて行くこと。▽「則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。「去私」は私心を捨て去ること。夏目漱石が晩年に理想とした境地を表した言葉で、宗教的な悟りを意味するとも、漱石の文学観とも解されている」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E5%89%87%E5%A4%A9%E5%8E%BB%E7%A7%81/m0u/
 漱石は、『吾輩は猫である』(1905年)、『行人』(1912〜13年)などの中で、禅の公案である「父母未生以前」への言及を行い、『門』(1910年)の中では、主人公が参禅した時にこの公案が出される場面を描く、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3 前掲
といった具合であって、仏教、就中禅に強い関心を抱いていたと思われますが、彼自身が悟ったかどうかはともかく、悟りとは人の本来的人間主義性の回復であること、を把握するに至った結果が、則天去私という言葉に凝縮されている、と私は、現在、見るに至っています。(注4)

 (注4)この関連で注目されるのは、漱石が、和辻哲郎に、大きな思想的影響を及ぼしたと思われることだ。
 (和辻は、「1913年 - 紹介を得て夏目漱石の漱石山房を訪れるようになる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%BE%BB%E5%93%B2%E9%83%8E
ところ、早くも同年中に、漱石は「「道にはいろうと思う」と和辻哲郎あての書簡に書い」ている。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12102320467 )

 要するに、こういうことです。
 漱石は、幼少期の家庭環境のせいで元々神経衰弱(精神的に不安定)であった自分が、個人主義的なイギリス生活でその不安定さが著しく募ったことの意味を、爾後、考え続け、仏教の研究・実践を通じ、日本が明治維新以降、イギリス(アングロサクソン)文明の全面的継受の形で弥生モードに突入し、同モードを深化させてきたことが、日本人の人間主義性を毀損させつつあることに気付き、縄文モードへの回帰を図るべきである、という考えに到達し、この考えを日本人の間で広く普及させるために、それをあからさまに唱えるという「危険な」方法ではなく、朝日新聞社に入社し、同新聞の紙面と連携させる連載小説群の執筆を続けることで次第に浸透させていく、という方法を採った、と。
 そして、『こころ』の中で、漱石は、明治天皇の死と乃木希典の殉死が、当時の弥生モードの死の契機となることを祈念して、この弥生モードのせいで人間主義が毀損しかけていたところの、Kと先生を自裁させたのだ、と。
 なお、私が、漱石の朝日新聞連載長編小説群中、『こころ』だけに感動したのは、漱石自身が、明治天皇の死と乃木希典の殉死について、それらを報じる新聞記事に係る読者達の記憶任せにせず、小説の中で明確に言及してくれていることから、彼が訴えたかったことの全体像を掴む手掛かりが全て彼によって与えられていたこと、そして、上で引用した『こころ』の評論に近い掴み方を私自身しつつも、それだけでは完全に掴みきれてはいなさそうに思えたところ、それが一体何であるかがどうしても分からない、というもどかしさに私はしばらく煩悶させられることになったからです。
 長生きはするものです。
 こうやって、長い間抱いていた疑問が、一つ一つ、徐々に、解消されていくのですからね。(太田)

(完)