太田述正コラム#8955(2017.3.6)
<夏目漱石は縄文モード化の旗手だった?(その3)>(2017.6.20公開)

 当時、大学生は26歳まで徴兵猶予されていましたが、明治25年、25歳になった金之助は、大学を卒業したら軍隊に行かねばなりませんでした。
 金之助は徴兵忌避のために、北海道後志国岩内に戸籍を移すのです。・・・
 当時、屯田兵制度に基づく開拓に多くの人々が従事していたため、北海道民は強制徴兵制が免除されていました。

⇒漱石は紙の上だけでしたが、当時、徴兵忌避目的で本当に北海道に移住した人が大勢いたと想像されます。
 北海道の人々が日本人の中で異色であること(コラム#8945)の背景には、こういうこともあったのですね。(太田)

 もっとも日清戦争の後、旭川に師団がおかれてからは徴兵されるようになりました。・・・
 漱石の文学的な営みは、日露戦争中の『吾輩は猫である』に始まりました。
 だからこそ、「強制徴兵制」としての軍国主義とどう向き合うのか、戦争がどのような状況を国と人にもたらすのか、ということが彼の一貫した小説のテーマとなりました。
 私はそう考えています。・・・
 『吾輩は猫である』<の中で、>・・・「東郷大将が大和魂を有つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有つている」・・・漱石は、戦時ナショナリズムの要である「大和魂」を真っ向から批判しています。
 戦場に出ている全ての大日本帝国兵士は人殺しに他ならないという根源的なアイロニーをここに刻み付けているのです。

⇒「「強制徴兵制」としての軍国主義」なんて、先に私が指摘したことを持ち出すまでもなく意味不明であることはさておき、「戦争がどのような<負の(という趣旨だろう(太田))>状況を国と人にもたらすのか、ということが彼の一貫した小説のテーマとなりました」との小森の指摘には疑問符が付きます。
 というのは、漱石は、「1909年(明治42年)11月6日付けの満洲日日新聞に掲載された<彼>の随筆「韓満所感(下)」の記事において、「歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。内地に跼蹐(きょくせき)してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた 同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と云はねばならぬ。」などと書いて」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3 前掲
いるからです。
 漱石は、「1907年(明治40年)2月<に既に>・・・朝日新聞社に入社」(上掲)しており、この「1909年(明治42年)<の>・・・満鉄総裁・中村是公の招きで<の>満州・朝鮮・・・旅行・・・の記録は『朝日新聞』に<も>「満韓ところどころ」として連載され<た>」(上掲)ほか、満鉄の機関紙とも言うべき満州日日新聞
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-asia-49.php
にも掲載され、小森が朝日ではなく満州日日新聞の方を引用しているということは、この内容の文章は朝日の方には載らなかったということなのでしょう。
 もとより、その内容には、この旅行のスポンサーであった満鉄へのリップサービス的な部分もあったことでしょうが、後に触れるように、漱石は、朝日新聞に政治小説を書くために入社しており、その目論見の第一弾を1908年の9月1日から12月29日にかけて同紙に連載した『三四郎』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%9B%E9%83%8E
で放ったばかりです。
 ですから、自分の政治「思想」に反する内容の随筆を、その翌年、他紙とはいえ、彼が書くはずがないのです。
 そんなことをしたら、黙契を成立させつつあった(後述)ところの、自分の朝日の連載小説の愛読者達を混乱させたり、がっかりさせたりしてしまうからです。
 結局、漱石の政治「思想」なるものは、自分が戦争で人を殺すのも殺されるのもイヤだが、自分が関わらない戦争で日本が帝国主義的に植民地や保護国を獲得することには、(私の言葉で言えば)人間主義の普及の観点から、反対しない、というもの・・恐らく当時の日本人の過半が(少なくとも心中においては)抱懐していた政治「思想」であったと思われる・・であった可能性が大だということになります。
 私見では、この漱石と、戦争を日蓮の思想(人間主義)の普及のための必要悪と考え、日本の敗戦後、非武装論者に転向ならぬ回帰をした石原莞爾、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
との違いは紙一重なのです。(太田)
 
(続く)