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太田述正コラム#8949(2017.3.3)
<東は東・西は西?(その6)>(2017.6.17公開)

 しかし、恐らく、最も驚くべき理論は農場構内(farmyard)由来のものだ。
 シカゴ大学のトーマス・タレルム(Thomas Talhelm)<(注3)>は、最近、中共の28の異なった諸省を検証した結果、思考志向(thinking orientation)は、その地域の特有の(local)農業を反映しているように見えた。・・・

 (注3)ミシガン大卒、ヴァージニア大博士(社会心理学)。2007年にプリンストン大学のプロジェクトで広州の高校で教鞭を執るため現地に派遣され、その後5年間中共に住み、2012年から2013年にかけてはフルブライト奨学生として、北京において、件の研究を行う傍ら、フリーランスのジャーナリストとして、また、中共の人々がきれいな空気を吸えるようにすることを支援する社会事業を創設・運営した。現在は、シカゴ大学ビジネススクールの行動科学の助教。
https://www.chicagobooth.edu/faculty/directory/t/thomas-talhelm
 なお、ヴァージニア大は世界121位、
https://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Virginia
シカゴ大は10位
https://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Chicago
であり、しかも、英エコノミスト誌の世界ビジネススクールランキングでは、同大のビジネススクールは世界一だ。(ちなみに、ハーヴァードが4位、スタンフォードが5位、
http://www.economist.com/whichmba/full-time-mba-ranking
というわけで、個人的には若干違和感があるが・・。)
 に比べれば、タレルムは、若いという点では同じでも、学者として折り紙付きである、と言えよう。
 
 <支那の>南部の大部分は稲作、北部の大部分は小麦作<であり、>・・・「それは、揚子江でもってほぼきれいに分かれている」、とタレルムは言う。
 稲を栽培するには、はるかに大きな協力が求められる。
 それは、労働集約的で、沢山の異なった諸農家にまたがる(spanning)複雑な灌漑諸システムが求められる。
 それとは対照的に、小麦栽培では、その約半分の労働力しか必要としないし、灌漑よりも降雨に依存する。
 ということは、農民達は、自分達の隣人達と協同する必要がないし自分自身の諸穀物の面倒を見るのに焦点を当てることができるわけだ。・・・
 ・・・個人主義的な諸社会の人々は、自分達自身を彼らの友人達よりも大きく描く傾向があるのに対し、集団主義者達はあらゆる人々を同じ大きさにする傾向がある。
 「米国人達は、自分達自身をとても大きく描く傾向がある」、とタレルムは言う。
 はたして、小麦栽培諸地域の人々は、個人主義の諸尺度(measures)でより高い得点を得る傾向があるのに対し、稲栽培の諸地域の人々は、より集団主義的かつ全体論的思考を示す。・・・
 爾来、彼は、この仮説をインドで検証してきており、そこでも、類似の諸結果を伴う形で、小麦と稲を栽培する諸地域がきれいに分かれていることが示されている。<(注4)>

 (注4)支那とインドの地域別主要作物地図が載っている。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/0431.html
 これを見ると、どちらにおいても、稲作地域(の人口)に比べて小麦作地域(の人口)は小さいことが分かる。
 実際、米(稲)の生産でも小麦の生産でも支那は世界1位、インドは2位だが、米の生産量(トン数)は小麦のそれの、それぞれ2倍強、1.5倍強だ。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/rice_much.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/wheat.html

 もとより、彼が質問した人々の殆ど全員が、直接農業には関わっていなかったのだが、彼らの諸地域の歴史的諸伝統が、依然として彼らの思考を形作っている、というわけだ。・・・」

3 終わりに

 支那北部出身者と南部出身者との間でIQに恐らく有意差はないと考えられるところ、前者と欧米人とどちらがより個人主義的であるかといえば、やはり、後者だと想像されるのであって、そのようなものとして、私は、タレルムの指摘は極めて示唆に富んでいると思います。
 タレルムの指摘を踏まえた、私の新仮説はこうです。
 稲作地域の人々は、タレルムが挙げる諸理由等でもって、集団主義的・全体論的ならぬ、人間主義的なのであって、だからこそ、第一に、インド亜大陸の稲作地域のど真ん中のマガダ国で釈迦が人間主義回復の方法論を再発見した(できた)し、第二に、支那の稲作地域の人々のうちの若干が、支那内での戦乱を避けて日本列島に弥生人達として渡った時に、人間主義者達であった縄文人達と出会い、縄文人は弥生人の稲作等の技術への憧憬、弥生人は縄文人の人間主義への敬意、の形で相互にプラスのケミストリーが生じ、この二集団の平和的共棲が開始されることになった、と。 

(完)

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