太田述正コラム#8917(2017.2.15)
<米帝国主義の生誕(続)(その14)>(2017.6.1公開)

 (11)批判

 「著者の20世紀初頭前後の米帝国主義に係る論議の説明は、米国の外交政策を帝国的愚行群の連鎖と見る拙速なる修正主義的説明に道を譲っている。・・・
 一世紀を超える米外交政策の全てが、実業(business)上の貪欲と傲慢なる愚行からなる若干の漠然たる混淆物に帰せられてしまっているのだ。
 著者は、この主張をするのは自由だが、この本の結論として提示されるべきではなかった。
 彼自身の説明が、実業的な諸利害が、米国をして、スペインとの戦争、及び、フィリピンの独立運動に対する戦争、を始めるべく駆動させた、という観念を裏付けていないからだ。
 著者自身、「実業家達は、一つの階級としては、戦争熱(rush to war)に加わるのを最初は渋っていたけれど、真夏にもなると、多くはその気になった」、と記しているところだ。
 アンドリュー・カーネギーは熱情的な反帝国主義者だったし、大企業と銀行の諸利害と同定されていたところの、マーク・ハンナ(Mark Hanna)<(注21)>は、セオドア・ローズベルトを軽蔑しており、彼を危険だと考えていた。・・・」(B)

 (注21)Marcus Alonzo "Mark" Hanna(1837〜1904年)。米国の実業家、共和党政治家(オハイオ州選出上院議員)。マッキンリー大統領の友人で政治的同盟者として知られる。Western Reserve Collegeを退学させられているので高卒。
https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Hanna
 その人種主義性については、上掲中で言及がないが、マッキンリーに対する彼の関係が、(前々米大統領のブッシュに対するカール・ローヴ(Karl Rove。コラム#104、588、1744、1776、3660、5723)に準えるべき、)一心同体的関係であった
https://muse.jhu.edu/article/477271
以上、ハンナもまた、マッキンリー同様の、強固な人種主義者であったと考えられる。

 著者は、20世紀初頭前後の、カリブ海、中央アメリカ、そして、太平洋、における、米国と他の諸大国との間の競争についての議論を完全に省いている。
 彼は、フィリピンでの戦争における最も有名な諸事件の一つ・・1898年のマニラ湾での、デューイ(Dewey)提督率いる米艦隊とオットー・フォン・ディーデリッヒス(Otto von Diederichs)率いる独艦隊との対峙・・に、言及すらしていない。

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[ドイツの帝国主義について]

 膠州湾租借地の日本語ウィキペディアにはこうある。
 「ドイツ植民地帝国の特質として、植民地は母国経済を支えるのが理想的だという理念があった。このため、多くの人口を抱える中国は、ドイツ製品の輸出市場として大いに注目され植民地化の標的になった。
 マックス・ヴェーバーのような思想家も政府に攻撃的な植民地政策を採るよう求めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%A0%E5%B7%9E%E6%B9%BE%E7%A7%9F%E5%80%9F%E5%9C%B0

 前段については、German colonial empireの英語ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/German_colonial_empire
でチェックしたが、ハンザ同盟/欧州東方植民、の歴史のドイツにとっての重要性を想起すれば、まんざら当たってないとも言えない、といったところか。

 しかし、後段については、甚だ舌足らずであり、ヴェーバーが推した「帝国主義」を経済主義的なものである、と誤解させかねないので補足したい。
 ヴェーバーは、政治に対する関心の低いドイツの一般市民の関心を高め、公的活動に積極的に参加させるための市民教育事業(civic educational project)として、ナショナリズムを喚起し、ドイツに全球的帝国を形成させ、他の全球的諸帝国と闘争させることが有効であると考えた。
 彼にとっては、英国がその理念型だった。
 英国の自由民主主義は、帝国形成の賜物だ、というわけだ。
 すなわち、彼が抱懐したのは、自由(liberal)帝国主義ないし社会(social)帝国主義の一種だったのだ。
https://plato.stanford.edu/entries/weber/
 私は、ヴェーバーの資本主義起源論の誤りをかねてから指摘してきたところだが、彼のこの帝国主義論は、論じるにも値しない愚論だと思う。

 このヴェーバーのならぬ、ドイツの、帝国形成が始まったのはアフリカより先にアジア・西太平洋においてだった。
 すなわち、「1884年には北東ニューギニア及びニューアイルランド諸島、ニューブリテン諸島、ソロモン諸島北部を<英国>との協議を通じて獲得。前者をカイザー・ヴィルヘルムスラント、後者をビスマーク諸島とそれぞれ改名した。なお、1886年、ベルリン協約に基づきソロモン諸島全島が<英国>の保護領となった。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A0%98%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%8B%E3%82%A2

 19世紀後半における、英独関係の(縁戚関係にあった両王室関係の良好さを反映して(?))の良好さが伝わってくる。
 話を戻すが、ドイツによる、アジア・西太平洋の北部への帝国拡大もなされるに至っていた。
 すなわち、「当時、世界の非欧州市場の中で中国市場は最重要と考えられ、その開放や閉鎖は列強にとって、またドイツにとって死活問題となっ<てい>た。・・・
 1897年11月1日、山東省西部・・・でドイツ人宣教師二人が殺される事件が起こった<ところ、>この「鉅野事件」 (Juye incident)は、ドイツのヴィルヘルム2世皇帝に、「ドイツ人宣教師の保護」という侵略の口実を与えた・・・

⇒ここでも、キリスト教が、結果としてであれ、侵略の尖兵の役割を務めた、ということを銘記しておこう。(太田)

 <1898年>3月6日、ドイツ帝国は独清条約を結び、膠州湾<(Kiautschou Bay)>を99年間清国政府から租借することになった。・・・
 この結果、中国側は租借地内および、その周囲の幅50kmの中立地帯のすべての主権を放棄することになった。「膠州湾総督府」 (Gouvernement Kiautschou)はドイツ帝国の主権下にありながらなお清国の領土であったが、租借期間内はドイツの保護国としての状態が続くことになった。さらに、清国政府はドイツ帝国に二本の鉄道敷設権と周辺の鉱山・炭鉱の採掘権を譲歩した。ドイツ保護下の膠州湾租借地以外の山東省各地もこうしてドイツの影響下に入った。<これは>、ロシア(大連)、<英国>(威海衛および香港外側の新界)、フランス(広州湾)への、同様の99年間租借に次々とつなが<ることとなった。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%A0%E5%B7%9E%E6%B9%BE%E7%A7%9F%E5%80%9F%E5%9C%B0 前掲

 すなわち、露英仏は言うに及ばず、ドイツに関しても、(・・話がややこしくなるが日本もここに入れてもよかろう・・)アジア・西太平洋への進出は先行していたのであり、米西戦争/米比戦争でもって、そこに、いわば殴り込みをかけて来たのが米国だったのだ。

 なお、「1899年、ドイツ政府はカロリン諸島およびマリアナ諸島(前年に<米>国へ割譲されたグアム島を除く)を、米西戦争にて敗北を喫したスペインから25,000,000ペセタ(16,600,000金マルクに相当)で購入することで合意した。両諸島は保護領となりドイツ領ニューギニアの統治下に置かれた。1906年にはマーシャル諸島が追加。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A0%98%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%8B%E3%82%A2 前掲
という史実を付言しておく。
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(続く)