太田述正コラム#8907(2017.2.10)
<米帝国主義の生誕(続)(その9)>(2017.5.27公開)

 (8)フィリピン

 「・・・<フィリピンに関して、米西>戦争及びそれに続いたこと<(=米比戦争)>は最も驚くべき諸様相の一つを提起した。
 それは、それが鼓吹したキャッチフレーズ群の数だ。
 大衆紙(yellow-press)の王様(Lord)のウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst)<(コラム#1627、3972、3976、4022、4024、4026、4028、4030、4264、4540、6283、7120、8488、8893、8897)>は、彼の写真家達の一人に、「君は写真群を提供(furnish)せよ、私は戦争を提供する」、という電信を送ったと噂されている。
 ラドヤード・キップリング(Rudyard Kipling)<(注12)(コラム#356、712、2456、4446、4568、5009、5166、6428)>は、<米比>戦争や他の同種の諸戦争を「白人の責務(the white man’s burden)」、と正当化した。

 (注12)1865〜1936年。「ボンベイ (ムンバイ) 生まれ<の>・・・イギリスの小説家、詩人・・・代表作に小説『ジャングル・ブック』『少年キム』、詩『マンダレー』など・・・1907年にノーベル文学賞を、41歳の史上最年少で、イギリス人としては最初に受賞。・・・
 「東は東、西は西」East is East, West is West・・・という言葉を遺したことでも知られる。」大学教育は受けていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0

⇒ジョージ・オーウェルは、キップリングを「イギリス帝国主義の伝道者」と呼んでいる(上掲)ところ、キップリングは一方的な侵略であったところの米比戦争まで聖化したわけである以上、あのオーウェルにしては、形容が雑である、と思いますね。
 「米帝国主義の狗」、とでも形容すべきでした。(太田)

 <米西戦争でのキューバの>サン・ホアン丘の戦い(San Juan Hill)<(コラム#3974)>の後に帰国したローズベルトは、<米国は、>「雄のアメリカヘラジカ(moose)みたいにでっかくて強く」感じた、と語った。
 国務長官のジョン・ヘイ(John Hay)<(注13)(コラム#2880、4087)>は、この紛争を「素晴らしい小さな戦争(a splendid little war)」、と要約した。

 (注13)1838〜1905年。「<米>国の政治家、外交官、作家、ジャーナリスト。1898年から1905年まで、・・・マッキンリー、・・・<ロ>ーズベルト両大統領の下で・・・国務長官を務めた(在職死)。・・・1899年、・・・国務長官ジョン・ヘイ<は、支那>に関して、門戸開放・機会均等・領土保全の三原則(ジョン・ヘイの三原則)を・・・<欧州>列強に対して示した。・・・ブラウン大学を卒業<し、>」リンカーンの秘書、駐英大使等を歴任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4

⇒リンカーンの文章をしばしば代筆したヘイ(上掲)が、米帝国主義のこのような権化であった、ということは、リンカーンもまた、似たような人物であったことを推測させます。(太田)

 <しかし、>フィリピン人達が引き続き抵抗を続けると、ヘンリー・アダムズ(Henry Adams)<(注14)(コラム#2870)>は、「フィリピンでの一年に及ぶ戦争のおぞましさを思うと、真夜中にベッドの中で青ざめる」、と一人の友人に書き送っている。・・・」(A)

 (注14)1838〜1918年。「国の作家、歴史家、思想家・・・曽祖父は第2代<米>大統領であるジョン・アダムズ、祖父は第6代<米>大統領であるジョン・クィンシー・アダムズ・・・[ハーヴァード大卒。ベルリン大で大陸法の諸授業を聴講。]・・・[駐英大使であった]父チャールズの秘書として7年間、ロンドンで生活した後に帰国し、母校であるハー<ヴァ>ード大学で中世<欧州>史と<米国>史を教えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%BA
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Adams ([]内)

⇒北米にやってきたウエールズ系イギリス人清教徒たる「落第」イギリス人を祖先に持つ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%BA
ヘンりー・アダムズは、若年期の7年間のイギリス住まいで、「まともな」イギリス人的な、つまりは、人間主義「的」な、米国人、へと矯正された、ということではないでしょうか。(太田)

 (9)キューバ

 「<帝国主義者達の>これらの諸動きは、全国的な反帝国主義運動の興隆を促した。
 その中には、有色全国反帝国主義連盟(Colored National Anti-Imperialist League)<(注15)>等も含まれていた。

 (注15)南北戦争後も実質的な黒人差別が続いていた中、国外に逃れる夢を抱く黒人達も少なくなかったが、国外まで次々に米国の支配下に入ることになれば、どこに逃れても同じ運命が待ち受けていることになりかねない、という理由で、黒人達が立ち上げたもの。Negro National Anti-Imperialial and Anti-Trust Leagueというのもあった。
https://books.google.co.jp/books?id=NxR5yhbvJiQC&pg=PA50&lpg=PA50&dq=Colored+National+Anti-Imperialist+League&source=bl&ots=3iYgFXqAfb&sig=0KWiOmOTLUkpBBzJRWfU_0wZET4&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi_-MyinIXSAhUFErwKHWMKDxsQ6AEIPzAF#v=onepage&q=Colored%20National%20Anti-Imperialist%20League&f=false

 著者は、「米国人達が、キューバに独立を供与するとの彼らの約束を違えたのは、彼らが、<キューバで>投票で選ばれることとなるいかなる政府にも、少なくとも部分的には黒人が含まれるであろうことを次第に自覚するようになったからだ」、と記している。・・・
 
⇒遠いフィリピンは、ほぼ有色人種だけしかいないので、一旦併合はするが、本国との人種混淆を避けるために、その後、そう遠くない将来に独立させることにしたのに対し、近いキューバは、スペイン系だけの植民地政府をつぶしたのはいいけれど、独立させると少なくとも部分的に有色人種の政府ができるだろうから、すぐ独立させる予定だったのを変更して、保護国化した、というわけであり、米国のこの時期の外国への進出にいかに人種主義が決定的影響を及ぼしていたか、が良く分かりますね。(太田)

 1901年に、米上院は、キューバを併合しないとの約束をうまく反故にして、プラット修正(Platt Amendment)を採択し、この島に形の上で独立を与えこそしたけれど、煩わしい諸条件を付けることによって、自由は<キューバ人にとって>引き続き幻想に留まることになった。・・・」(E)

(続く)