太田述正コラム#8851(2017.1.13)
<米支関係史(その5)>(2017.4.29公開)

 (2)諸書評から

  ア 蒋介石

 「・・・彼は、極めて正しくも、バーバラ・タックマン(Barbara Tuchman)<(コラム#6112)>による、『スティルウェルと米国の支那での経験(Stilwell and the American Experience in China)』の中での中国国民党指導者、蒋介石の生々しい描写に異を唱える(challenge)。
 ジョーゼフ・スティルウェル(Joseph Stilwell)大将<(コラム#5716、6342、6344、6350、6391、6413、7177、7807、7844、8330、8628)>は、彼女が描写したような英雄的人物ではなかったし、蒋介石もまた、極悪人ではなかった<のだから・・>。

⇒蒋介石は、極悪人ではなく、単に平均的支那人、すなわち、阿Qであった、ということが、タックマンにもポムフレットやこの書評子には分からないのですね。哀れなことです。(太田)

 支那政府の諸部隊は、実際に1930年代と40年代に日本の侵攻者達と戦ったのだけれど、蒋は、その忠誠心が疑われた将軍達への支援は行わなかった、という<だけの>ことなのだ。
 フライングタイガーの有名人であるクレア・シェンノート(Claire Chennault)<(コラム#6413、8346、8360、8362)>が、蒋に、湖南省(Hunan)の彼の諸飛行場を守るための諸部隊に支援物資を送るよう求めた時、蒋は拒否した。
 この、彼の部下達が湖南省で日本軍に対して勇敢に戦ったところの、<蒋によってその忠誠心を疑われた>中将は、残りの人生の大部分を軟禁下で送ることになった。
 <とはいえ、>ポムフレットによる蒋の擁護はしばしば行き過ぎだ。
 彼が、<日支/太平洋戦争の>後の内戦での蒋の敗北についての米国の責任を認めようとする姿勢についてもそうだ。
 <蒋の>政府軍が軍事的には圧倒的に優勢であったことから、蒋さえもが、自分の諸失敗への非難を自身の日記の中で認めている<のだから・・>。・・・」(A)

⇒蒋介石についての最も基本的なことが分かっていないのですから、後、彼らが蒋介石がらみのことで何を言おうと、傾聴に値する話など、出てくるわけがありません。(太田)

  イ 毛沢東

 「・・・1940年代の中国共産党の分析の段になると、<今度は、>ポムフレットは、毛沢東とヨシフ・スターリンの間の緊張関係を過小評価している。
 <また、>彼が、「支那で失われた機会」という、私が1967年にオービス(Orbis)誌の論考でもって始めた論争・・米国が中国共産党に対してより敵対的ではなかったならば、毛沢東を手に入れることができたか否か・・を却下(dismiss)するのは<それなりに>正しい。
 毛は、スターリンの諸願いに反して中国共産党の指導者の地位を奪取した上に、ソ連に対する諸圧力を緩和するために毛の部下達を日本軍に対する作戦行動に投入するよう要求した時にも、彼らの諸命を危険に晒すことを拒否したことから、スターリンは、毛が1950年初にモスクワに赴いて<中ソの>同盟条約の諸規定について交渉した時、彼を粗略に扱った<からだ>。
 <もとより、日支/太平洋>戦争の間中の、毛の米国に対する称賛は単に戦術的なものではなかった。
 すなわち、この期間の内部メモ群、及び、教育資料(educational material)の中から<毛が米国に>好意的見解を抱いている豊富な証拠、及び、ソ連の1945年の満州での略奪に対する怒りと共に、ソ連の諸意図に対する不信、の証拠が見出される<からだ>。

⇒「この期間」に限らず、毛沢東の反ソ姿勢は一貫しているのですがね・・。(太田)

 しかし、周恩来が彼と対談した米国人達に語ったように、中国共産党員達は、間違いなくソ連政府寄りなのであって、その程度<だけ>が米国政府<に対中共姿勢>にかかっていたのだ。

⇒親日の毛と反日の周とが思想的には相いれない関係にあったことはともかく、毛にせよ周にせよ、中共の高官達がホンネを米国人に限らず、部外者に対して語るとは限らないことを、ポムフレットもこの書評子も、呆れたことに、忘れているようですね。(太田)

 ポムフレットが、スティルウェルが毛のソ連政府との絆を過小評価していた、としているのは正しいけれど、彼は、中国共産党と米国との間のより対決的でない関係の可能性を夢想(imagine)した人々に対して批判的過ぎるというものだ。・・・」(A)

⇒この点に関しては、スティルウェルとこの書評子よりは、ポムフレットに私は軍配を上げます。(太田)

(続く)