太田述正コラム#8801(2016.12.19)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その14)>(2017.4.4公開)

 「1月28日・・・和議<(休戦(大田))>が成立するとみて、昨日来、市内の庶民や悪徳商人たちは、高利を得ようと企んで密かに貯蔵していた食料、チーズ、鶏卵、兎肉、豚肉の類を急に出して売り払うが、その値段は昨日までの3分の1ほどの低価、あるいは半値になるものもあったという。
 これはほかでもない、近く鉄道が修理され、蒸気車線路ができて地方から食糧と諸物品が市内に運輸されるようになっては、貯蔵の諸品はもはや利潤が見込めないとわかったからである。」(268)

⇒冬のパリはロンドンよりも寒く、しかも、地球温暖化が本格的に始まる前で、その上、1879年からのパリ・ミニ氷河期
http://www.kotensinyaku.jp/archives/2012/01/005178.html
の直前であったとはいえ、冷蔵庫がなかった時代に、「チーズ」はともかく、彼らが、「鶏卵、兎肉、豚肉」を腐らせずにどのように隠匿していたのか知りたいところです。とりわけ、「鶏卵」は塩漬けにするわけにもいかないでしょうから・・。(大田)

 「1月30日・・・昨夕、<フランス>政府は市内向けに休戦条約15か条を公表した。
 ドイツ皇帝の代理人としてドイツ同盟の全権宰相伯爵ビスマルク<(注28)>とフランス共和政府外務大臣ファーヴル<(注29)>が交渉して決議した条約である。」(274)

 (注28)ビスマルクは、北ドイツ連邦時代、連邦宰相兼プロイセン宰相であり、連邦には外務長官(secretary)はいても・・確認はできていない・・、外務大臣(minister)はおらず、他方、ビスマルクは、プロイセン首相に任じられてしばらく経ってから外務大臣を兼務し、その兼務をずっと続けていた。
https://en.wikipedia.org/wiki/North_German_Confederation
 以下は参考まで:「ビスマルクは<、軍の作戦に関し、>軍人たちよりも苛烈な意見を表明することが多かった。たとえばパリ包囲戦で〔プロイセン参謀総長の〕モルトケは兵糧攻めを主張したが、中立国の介入を恐れるビスマルクは早期終結のためとしてパリ砲撃を主張し、[プロイセン]陸相[兼海相]ローンの支持を得てモルトケに譲歩させてパリ砲撃を強行した。またゲリラ部隊に対してビスマルクは容赦ない取り扱いを主張し、「ゲリラ兵をただちに銃殺している」バイエルン軍を褒め称えた。またフランス領アルジェリアから連れて来られたアルジェリア人兵士を「撃ち殺さねばならない害獣」と評した。占領地の民間人にも冷酷であり、「戦争の苦しみが和平を促す」「恐怖を与えて屈服させる」と称して住民に「耐えがたい重圧」を与えることを主張した。
 1871年1月19日、包囲されるパリ駐留軍が包囲突破を試みて失敗したことで、ファー<ヴ>ルはプロイセンに停戦を申し出た。ビスマルクは停戦条件をめぐっては寛大だった。モルトケがパリ駐留軍から武器・軍旗・鷲章を奪い、捕虜はドイツへ移送することを条件とすべきと主張したのに対し、ビスマルクはこれを退けて、捕虜からは武器だけ奪い、ドイツへ送るのではなくパリ市内に拘留することを条件とした。このおかげでフランス政府も条件を呑みやすくなり、1月28日には停戦条約が成立した。これに基づきドイツ軍はパリ西部を占領した。中心部や労働者街は、プロレタリアの国民軍が形成されていたが、その武装解除はフランス政府に任せた。2月8日に行われたフランス国民議会選挙では平和を訴える王政復古派が大勝し、アドルフ・ティエールがフランス首相に選出された。ティエールは2月28日にもドイツ軍大本営が置かれているヴェルサイユでプロイセン政府の要求を全て受諾する講和条約を結んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%B1 (〔〕内)
 (注29)Jules Claude Gabriel Favre(1809〜80年)。弁護士出身の共和主義者。普仏戦争に反対し、ナポレオンが捕虜になった時にその退位を求めた。
 1871年1月28日の停戦条約を、自軍の状況を把握しないまま、しかも、ボルドーにあったフランス政府に訓令を仰ぐことなく交渉したために、自軍に多大な迷惑をかけ、また、〈同年5月10日の〉講和条約(Treaty of Frankfurt)締結交渉ではなすすべもなくビスマルクの言い分に屈し、フランス政府の信認を失い、8月2日に外相を辞職した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Jules_Favre
https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Frankfurt_(1871) (〈〉内)

 「2月8日・・・この年の1月1日、ドイツ国で退位したナポレオン帝は・・・ドイツにいるフランス兵の捕虜・・・一人につき金貨5フランおよび10本入りの巻煙草一束ずつを贈ったという。
 その意味は察するよりほかはない。」(287)

 「現在の形勢を見ると、パリ市民は共和制の支持者が最も多く、これを支援しようとする者が少なくない。
 ところが、全国諸地方では、なおナポレオン派とオルレアン派が非常に多く競いあい、<この三派に正統王朝派(レジティミスト)を加えた>四派<(注30)>の勢いはいずれも制しがたいほどになってしまった。」(288〜289)

 (注30)オルレアン家はブルボン家の分家だが、両家の関係は、7月革命によって1830〜48年の間、フランス王となったルイ・フィリップ(Louis-Philippe)・・自由主義者を標榜して本家に対抗していた・・の祖父が、ルイ14世の弟を父方の祖父、同じルイ14世の娘を母としている、というものだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Philippe_I 等

⇒ルイ・ナポレオン一家もそうしたわけですが、ルイ・フィリップが1830年にいわば退位に追い込んだ本家のシャルル10世(Charles X)一家も、そして、1848年に退位に追い込まれた分家のルイ・フィリップ一家も、どちらもイギリスで余生を送った(上掲)ことを覚えておきましょう。
 ちなみに、ドイツ帝国最後の皇帝のヴィルヘルム2世は母方の祖母の国であるイギリス嫌いを貫き通し退位後オランダに亡命しました・・もっとも、イギリスに亡命していたら、その後、戦犯として身柄を拘束され、国際裁判で訴追された可能性があります・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A02%E4%B8%96_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%9A%87%E5%B8%9D)
が、オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝カール1世の1921年のポルトガル領マデイラ亡命はイギリスが自国艦艇を派遣して彼を「救出」し、実現したものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB1%E4%B8%96_(%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%9A%87%E5%B8%9D) (太田)

(続く)