太田述正コラム#8797(2016.12.17)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その12)>(2017.4.2公開)

 「<1871年>1月7日・・・私は常に嘆く。
 フランスの人民、その心は傲慢で帝を恐れず士官に遠慮せず、政治体制をほしいままに誹謗し、政府を軽蔑する。
 こうした習慣は常にパリの風俗である。
 そして、彼らの弁舌の才能を発揮してたやすく国の政治をうるさく罵っても、出て行って重要な政務を担おうとはしない。
 いたずらに市民の心を動かし、ともすれば激しく動いて政府を変革しようとする。
 そのため、権力の大半は民衆にあって、政府は深く民衆を恐れる。
 尤も、政治の道の奥義は民衆に拠らなければならないのだが、その民衆の上に立つ者としての威厳や主権はその主導者にある。
 思うに、フランスのような国ではナポレオンのような勢威をもつ帝王が上にいて、自らパリ市内を足下に治め、全国を一つに掌握しなければ、とても民衆を制御することはできない。
 また、とてもこの傲慢な人民においては、民主・共和の政治は永くおこなわれないだろう。」(215)

⇒ここは、基本的に正元の言う通りであると思いますが、最後の予想は完全にはずれました。
 普仏戦争中の1870年に復活した共和制は、その後、ドイツの占領下に入った第二次世界大戦中を除き、現在まで「永くおこなわれ」ているからです。
 もっとも、正元の予想を覆したのは、(どちらの大戦においても米国の参戦は途中からだったが、)第一次、第二次両大戦において、英米両国がフランスの側に立って戦い、いわばフランスに救命救急措置を施したからであって、さもなくば、両大戦のどちらかでもって、フランスはドイツを中心とする西欧の超大国の一行政区となる形で事実上消滅していたはずです。
 にもかかわらず、救命救急措置を施されたフランスは、今や、事実上、EUの盟主たるドイツの属国化しつつあります。
 従って、正元の予想は、実質的には的中した、と言えそうです。(太田)

 「1月10日・・・現在、敵軍は市内の病院を標的にして砲弾を発射していると推察される。
 これは憎むべき行為ではないか。
 彼らは戦争法規にも従わず、また、人情として憐れむべき事態をも顧みないのだ。<(注26)>・・・

 (注26)ちなみに、普仏戦争直前の1869年に、「不必要な苦痛の禁止、戦闘員と非戦闘員の区別という国際人道法の原則を導き出す性格を持っていた・・・サンクト・ペテルブルグ宣言」
http://kiichi.at.webry.info/201401/article_7.html
が行われている。(太田)

 ヨーロッパ列強には国法や規律があって、そのもとで互いに戦争をしている。・・・
 相手側の市城に対して砲撃しようとするときは、砲撃前に使者を出してそのことを防衛側に伝える。
 これによって市内の老人、幼児、婦女、病院および外国人たちをその場所から避難させる。
 その後に攻撃側は砲撃を始める。
 これは近世におけるヨーロッパの国際法にして、列強軍律中の一規則となっている。・・・
 それにもかかわらず、・・・プロイセン軍<は>都市砲撃の戦時国際法に従わず、傲慢かつ残酷な行為をしている・・・
 そうはいっても、今日のヨーロッパの事情では、強国必ずしもその古い法律や判例を第一とせず、殊さらに便宜的な手段で百戦百勝した後、隣国を分割し、土地を併合<する、>・・・これが今日のヨーロッパ列強の胸算用である。・・・
 <そもそも、>パリ市内<の>ヨーロッパ各国の外交官・・・は手出しせず黙って見ていて、敢えて<プロイセンに対する>取り締まりや責めに着手するようすが見られない。
 「強者とは不正をはたらく者なり」といえよう。」(219、221〜222)

⇒正元が依拠していた国際法の本(諸本?)を知りたいところですが、そんな本以前に、江戸末期の正元のような、行政官化していた武士、が身に着けていた牧民感覚(仁政思想)
http://somali-present.blogspot.jp/2008/10/blog-post.html
が、このように彼を悲憤慷慨させている、という感を深くします。(太田)

(続く)