太田述正コラム#8795(2016.12.16)
<渡正元『巴里籠城日誌』を読む(その11)>(2017.4.1公開)

 「11月28日・・・今日、市中に布告が出た。
 このたびの籠城中、市民はこぞって国民衛兵となった。
 それによって、先日からこの衛兵一人につき毎日1フラン半・・・が支給された。
 今回はその衛兵の祭祀に一日75サンチーム・・・を給付するという。
 これは、物価が騰貴するので貧しい者の家計を助けるためである。」(168)

⇒編集者は、国民衛兵が有給であることに驚いています(168)が、「いわゆる国民皆兵による徴兵制はフランス革命から始まる。フランス革命以降、国家は王ではなく国民のものであるという建前になったため、戦争に関しても王や騎士など一握りの人間ではなく、主権者たる国民全員が行なう義務があるということになった。そして革命に伴う周辺諸国との戦争で兵員を確保する必要に迫られたため、ナポレオンなどによって国民軍が作られたのである。貧しい人々にとっては軍隊の暮らしは比較的ましであり、給与と生活を保障されるという側面も存在した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E5%88%B6%E5%BA%A6
という次第であり、それは少しも驚くことではなかったのです。
 ところで、フリードリッヒ大王以来、精強を誇ってきた職業軍隊たるプロイセン軍がナポレオン率いるアマの国民軍に敗れたことで、量は質を陵駕する、という事実を突き付けられたプロイセンは衝撃を受け、爾後、フランスに倣って徴兵制を導入し、
https://en.wikipedia.org/wiki/Conscription
復仇の時を狙っていたのですから、徴兵源(人口)においてフランスとそれほど大きな差がなくなりつつあった以上、(もともと戦術や編制法において卓越しており、当時、技術力においてもイギリスに肩を並べる世界一の水準に達しつつあった(後出)ところの)プロイセンが普仏戦争に勝利を収めるのは当然のことだったのです。(太田)

 「12月30日・・・フランスは大砲を多く保持するとはいえ、遠距離射程のクルップ砲<(注25)>と比肩すべくもなく、一昨日来、ただ敵の砲弾を受けるのみで、これに応射できなかった。・・・

 (注25)「昔から、強靭な鉄である鋼鉄は、鍛冶屋が金床に鉄材を載せて鎚で叩いて鍛造するしかなかったため、サイズや形が限られていた。鋳型に熔鉄を流して作る鋳鉄[(cast steel)]は、大きなものを作れ造型の自由度は高かったが、もろく壊れやすかった。このため、鋳型で鋼鉄を作る鋳鋼の技術が研究され、18世紀の末にイギリスのシェフィールドで鋳鋼の技術が確立されて、世界の需要を独占した。・・・
 <この>イギリスが独占する鋳鋼の製造技術を解明することを志した<父の遺志を継ぎ、>・・・アルフレート・クルップ(Alfred Krupp、1812年-1887年)・・・ついに鋳鋼の製造に成功する。・・・
 クルップは<鋳鋼を使った>兵器<・・特に火砲・・と>鉄道用品の製造に力を注いだ。・・・クルップの作る継ぎ目なしの車輪[(no-weld railway tyres)]は、丈夫でしかも摩擦が少な<かっ>・・・た。こうして、<大量に作られたクルップ砲と>建設された鉄道が普仏戦争をプロイセン王国の勝利に導いたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%97
 アルフレートが初めて、鋳鋼製の火砲を製造したのは1847年、継ぎ目なしの車輪を製造したのは1851年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Krupp ([]内も)

 このクルップ砲の弾丸は8千ないし9千メートル・・・の地点に達する。」(198)

 「12月・・・31日・・・<ナポレオンが捕虜になった>当時のフランス人は皆、こう言ったものだ。「このたびの戦いはフランス帝ナポレオンが自ら好んで起こしたもの・・・。
 プロイセン軍もまた、「今度の戦争をわれわれはナポレオンと戦って、フランス国人民とは戦っていない」と言<っていた。>・・・
 ゆえに、フランスで共和制度が樹立された直後に、ナポレオンが起こした戦争の和平を謀れば、その賠償金は僅かで済んだであろうし、その後の損害も受けることなく、フランスの挫折が今日のように酷いものになっていなければ、共和制度<復帰>の功績は大だったという結果になる。・・・
 しかし、当時の状況は今日の切迫した事態とは異なっていた。
 今や、フランス政府が抗戦しようにも策略はもはやなく、和平しようにも手立てもないまま日々ためらって過ごす。・・・
 それゆえ、フランスの内政変革も好機だったとはいえず、また、国のためにもならなかった、と私は思う。」(203〜204)

⇒一見もっともらしい批判ですが、普仏戦争は、マクロ的にはプロイセンがフランスを追い詰め、ミクロ的にはそのフランスが暴発したために起こったところ、その暴発はナポレオンとフランス国民の圧倒的多数の意思だったと言うべきであって、だからこそ、フランス国民の圧倒的多数が緒戦の負け戦の責任をナポレオンほぼ一人に被せる形で戦争の継続を欲したのであり、その結果、フランスが更に窮地に陥る羽目になった、ということであり、批判するとすれば、暴発したこと自体について、「好機だったとはいえず、また、国のためにもならなかった」でなければならなかった、と私は思います。(太田)

(続く)