太田述正コラム#8721(2016.11.9)
<レーニン見参(その5)>(2017.2.23公開)

 「<レーニンの要求で受け入れられたことの中に、>ロシア人達がドイツを通っている間、彼らの客車群は、治外法権の対象たる地位を与えられること、これらは止められたり捜索されたりしないこと、彼らの諸書類は検査されないこと、そして、彼らの許可なく誰も中に入らないこと<、がある>。
 そういうわけで、「封印列車(sealed train)」の神話が生まれた(launched)。
 とはいえ、著者が指摘するように、この危険な旅行の間に、かなりの数の人々がこの列車の客車群に出入りした。
 ドイツ人達は、この作戦に危険が伴うことは知っていたが、最終的には、捨てばちがそれを採択させた。
 「畏れの感覚を抱きつつ、彼らは、全兵器群中最も陰惨な代物をロシアに襲い掛からせた」、とウィンストン・チャーチルは論評した。
 「彼らは、レーニンを封印された荷物運搬車でスイスからロシアまで、まるでペスト菌のように運搬した」、と。

⇒レーニンは、ボルシェヴィキにおける彼の最終後継者たるゴルバチェフ退陣直後までの間に、ロシア帝国の領土中、基本的に、フィンランド、ポーランド、ベラルーシ、カフカス地方、及び、中央アジアを失わしめたのに対し、チャーチルは、大英帝国の領土中、本国、カナダ、豪州、ニュージーランド以外の全てを失わしめる原因を作ったのですから、それぞれの祖国に関してだけでも、レーニンがペスト菌なる細菌兵器だとすれば、チャーチルは、核兵器級の代物であったことになるとも言えるのであり、笑止千万です。(太田)

 著者は、典拠群の乏しさにもかかわらず、この列車の雰囲気を小説家の感受性でもって呼び起こす。
 常に清教徒的な暴君(tyrant)であったレーニンは、宴会や便所の中以外での喫煙を禁じたが、この決定は、彼の同僚乗客達を怒らせた。
 革命醸成のためには休息をとった諸身体が求められたことから、彼は、全員を厳しい睡眠スケジュールの下に置いた。
 白墨で客車の床に線が引かれ、彼らのドイツ人護衛達と亡命者達の空間が画された。
 一行のうち、中立国出身の一人の成員のみが、この二つの区域群(zones)の間の行き来が許された。・・・
 レーニンは、ドイツの助けを受け入れたが、これは、彼をゲオルギー・プレハーノフ(Georgi Plekhanov)<(注8)(コラム#8175、8715)>と同等の<敵国の>手先(agent)にしただけのことだ。

 (注8)ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ・プレハーノフ(Georgij Valentinovich Plekhanov。1856〜1918年)。「タタールの世襲貴族の家に生まれ、陸軍士官学校、鉱山学校に学ぶ。
 1875年から革命運動に投じ、はじめはナロードニキの秘密結社土地と自由に属したが、1879年に分裂した際は人民の意志に反対する黒い割替派の指導者となる。1880年に国外に亡命後、第一インターナショナル運動を知り、1882年にマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』をロシア語に訳して公刊し、その後マルクス主義の有力な宣伝者とな<り、その後、>・・・ジュネーヴにおいて労働解放団を組織し、マルクス主義文献を翻訳<活動を続けた>。
 1889年の第二インターナショナルの創立に参加し、1900年レーニンの《イスクラ》紙発行に協力した。1903年ロシア社会民主労働党の第2回大会後まもなく、メンシェヴィキに与した。1904年に日露戦争が勃発すると、同年8月の第二インターナショナルアムステルダム大会の開会式でロシアと交戦中の日本代表の片山潜と握手し、帝国主義の枠に捉われない労働者の反戦を訴えた。ロシア第一革命(1905−07年)では武力蜂起に反対し積極的な行動をとらなかった。・・・
 第一次世界大戦中はロシアのドイツに対する戦争に賛成し、1917年のロシアでの二月革命後も態度は変わらず、十月革命にも反対の立場をとる。二月革命直後に連合国側の後押しもあって静養中のサンレーモから帰国し<たが、>・・・レーニンらの体制に幻滅し、十月革命からわずか3日後・・・、「ペトログラードの労働者への公開状」を<仲間達>とともに発表して十月革命を『史上最大の災厄』であり、結果として内戦を引き起こして二月革命の到達点よりもはるか後方に後退するだろう、と批判。・・・密に出国して翌1918年にフィンランド・・・で結核により死去・・・
 ボリシェヴィキ政権は、彼の死後には初期の論文のみを出版し、プレハーノフ記念ロシア経済アカデミーおよびG・V・プレハーノフ・サンクトペテルブルク国立鉱山大学に彼の名を付けるなど政治的に利用した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%95

⇒ロシアにマルクス主義を紹介したプレハーノフにも、ロシアでマルクス主義を後のスターリン主義的に改変したレーニンにも、モンゴル人の血が流れていた(注9)、というのは、これぞ、思想的ならざる身体的ユーラシア主義、と言いたくなりますね。(太田)

 (注9)「レーニン<の>・・・父方の・・・曽祖父はモンゴル系カルムイク人(オイラト)であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3

 プレハーノフは、「ロシア・マルクス主義の父」であり、ほぼ同じ時期に、英国によって、<ロシア>臨時政府のために扇動活動をして(agitate)戦争から離脱しないようにするために<ロシアに>送り返されたものだ。
 トロイの木馬達を利用したのは、ドイツ人達だけではなかった、と著者は正しくも記している。」(E)

(続く)