太田述正コラム#8719(2016.11.8)
<レーニン見参(その4)>(2017.2.22公開)

 (3)レーニンの思惑

 「ロシアで2月革命が勃発した時、レーニンは、眠くなるような中立のスイスで立ち往生していた。
 祖国に戻る唯一の方法はドイツを通ることだったので、この亡命者にして甚だしくイライラが募っていたところの、ボルシェヴィキの指導者は、いみじくも助けの手(Helphand=ヘルファンド)という名前の、卑劣漢たる仲介者を通じて動き、彼自身と彼の使徒達をロシアへと帰す取引を交渉した。」(A)

 「欧州での亡命者として暮らしていて、レーニンは、1917年3月の<ロシア>君主制の没落を知った時に驚愕した(stunned)。
 「仰天だ(Staggering)!」と、彼は、妻のナデジダ・クルプスカヤに叫んだ。
 「いや驚いた(Such a surprise)! 国に帰らなきゃ」、と。
 ここに、レーニンとドイツの最高司令部の諸願いとが同期(align)した。
 レーニンは、ロシアに戻るべく思いつめ、欧州を通って何とかそれを達成するためのあらゆる可能な選択肢を模索し始めた。
 他の国がどこも彼の帰還を助けようとしなかったので、彼は、この提携(alliance)が帰還時に自国の人々にどう解釈されるかについてつかの間の逡巡の一時の後、ドイツの申し出を受け入れた。」(E)
 
 「<しかし、>レーニンの党派主義は、彼が、他者達と反戦の大義を共にしないであろうことを意味していた。
 <例えば、>彼は、英エコノミスト誌の、ある反戦記事を、辛辣な態度で、<同誌を>「英国の百万長者達の代弁をする雑誌」と貶めつつ、筆者達が「革命が怖い」というだけの理由で平和を欲しているとして、こきおろしたことがある。・・・
 <とまれ、>アレクサンダー・ケスクラ(Alexander Keskula)<(注7)>と呼ばれた、茶目っ気のあるエストニア人こそ、ドイツの諜報機関に、レーニンを故郷に運べば枢要な戦略的目的(goal)に資する可能性がある、と示唆した最初の人物だった。

 (注7)1882〜1963年。エストニア生まれで、エストニアのタルトゥ(Taltu)、ドイツのベルリン、そして、スイスのチューリッヒ、及び、ベルン大、で政治学と経済学を学ぶ。日本の諜報員の明石元二郎の工作を受け、1905年、ボルシュエヴィキの一員として、ロシア帝国内で騒擾を起こそうとした。1913年にはエストニア民族主義者となり、1914〜15年、ドイツ政府に対し、レーニンをロシアに送り込んでロシア帝国を分解させてエストニア等の独立を勝ち取ろうと画策したが、レーニンとさしたるコネがなく、橋渡しに失敗した。晩年はスペインで過ごし、マドリードで没した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Aleksander_Kesk%C3%BCla

 ロシアにおいて、反戦陣営を強化すれば、同国は戦うのを止めるかもしれず、そうなれば、米国が参戦する前に、ドイツが英国とフランスを敗北させる時間が与えられる、というのだ。
 ドイツはすぐにそう確信した。
 <結局、パルヴスを介して行われた>取引は、わずか2週間の交渉で決着したが、レーニンは、この列車は治外法権が与えられなければならず、また、それは止まってはならず、更にまた、その(全部で雑多な32人の)乗客達は、調べられるようなことがあってはならない、と執拗に主張し<、かなえられ>た。」(C)

 「ドイツ諜報のために働きつつボルシェヴィキ達を助けようとした、アレクサンドル・パルヴスのような機会主義者達(chancers)は、その過程で莫大な額のカネをくすねた。」(B)

 「著者は、パルヴスに渡された数百万ドイツマルクのうちの若干は、恐らく「レーニンの闘争基金」に収まったことを認めている。」(E)

⇒溺れる者、藁をつかむ、を地で行ったような話であり、この愚行のツケを、ドイツは、第二次世界大戦の時に、ボルシェヴィキ・ロシアによって、人命と領土の大幅喪失と中枢部のロシア保護国化、という形で払うことになるわけです。(太田)

(続く)