太田述正コラム#8715(2016.11.6)
<レーニン見参(その2)>(2017.2.20公開)

 「このロシア革命は、全体主義的共産主義を権力の座に就け、やがて、それが、人類の3分の1を支配し、1930年代においてナチズムの興隆を促し(stimulated)、かくして、第二次世界大戦<勃発を>促し、冷戦の恐怖の均衡の40年に直面したところの、大敵対者たる西側(the West)を創造したのだ。」(F)

⇒中共は人間主義政党/国家であり、ベトナム共産党/現国家もそれに準じる存在・・但し、この点については、更なる掘り下げが必要・・であり、また、キューバ共産党/現国家と、北朝鮮労働党/国家は、広義の君主制国家・・前者は良性、後者は悪性・・にして人口1200万人前後の小国家に他ならならないこと、を踏まえれば、中越はロシア型の全体主義的共産主義(ボルシェヴィズム)の範疇に入れるべきではありませんし、キューバと北朝鮮も、入れるにはいささか違和感があります。
 したがって、ボルシェヴィズムが「人類の3分の1を支配し」た、とは言えない、と私は思います。
 かつまた、冷戦は、太田史観に照らせば、日本が始めた日露100年戦争の最終フェーズ、と捉えられるのであって、この最終フェーズにおいて、ロシアが纏っていた衣に過ぎないところの、ボルシェヴィズム国家たるソ連、との日本等の対峙を特別視すべきではない、と思います。(太田)

 「著者は、・・・レーニンの、ゆっくりした、もたついた冒険旅行(odyssey)という転機的(pivotal)瞬間を選び、この容赦なき狂信者が、どのように、革命をハイジャックし、それをかれの残酷で恐ろしいイメージに装い直したか、という歴史叙述を掲げる。・・・
 著者は、レーニンの、一週間に及んだ、ドイツから始まり、スウェーデンとフィンランドを経由して、彼が20年近く見たことがない、ロシアへ、という旅を再追跡する。
 それと同時に、展開しつつあった、サンクト・ペテルブルグでの<2月>革命、及び、レーニンの長きにわたる亡命<(注1)>の背景、とりわけ、「極端な」ボルシェヴィキと「穏健な」メンシェヴィキ<(注2)>との間の悪しきイデオロギー的諸闘争(feuds)、をこの物語の中に巧みに織り込んでいる。」(A)

 (注1)秘密警察の手が伸びてきたため、レーニンは。1907年5月、ロシア帝国外へと亡命した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Lenin
 (注2)「1903年7月・8月の党大会で党規約を審議したさい、規約第一条の「党構成員の資格」をめぐって、意見の対立が生じた。レーニンは党員の資格を「党の組織の一つに属する人のこと」と規定し、もう一つのユーリー・マルトフから提出された規約案では「党の組織の一つの指導のもとに活動する人のこと」という表現がされていた。
 記述の上ではそれほど大きな差はないように見えたが、それ以前からレーニンがその著作『何をなすべきか』で組織され訓練された職業的な革命家たちによる小さな党を提唱していたことはよく知られたことだったので、党大会は規約第一条に関する議論で感情が高まり、できたばかりの党組織を分裂させることになった。レーニンはマルトフの描く党組織像を大衆に開かれた党であるとともに官憲に開かれた党であると論難した。大会の全投票において、反対28・賛成23をもってレーニン案は否決された。
 ところが党指導部の母体となる雑誌『イスクラ』編集部をレーニンが制し、さらに党規約第一条のマルトフ案に賛成したリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟(ブンド)<代表>の4名が大会を離脱し、レーニン案を支持したものが残った結果としてレーニン支持者が多数派となった。
 さらに『イスクラ』の編集部から古参革命家<3名>・・・を解任することをレーニンが提案し、今や少数派となった「反対派」がそのことに反発し、新編集局と党中央委員会に自派の候補者を参加させることを拒否した。このときからボリシェヴィキとメンシェヴィキは別々の会議を持ち始め、お互いの誹謗中傷に熱中するようになる。
 メンシェヴィキは党大会で一時少数になっただけで、党外のヨーロッパ社会主義運動では広い支持を獲得していた。特にドイツ社会民主党のカール・カウツキーは、レーニンの論文を自分の新聞に掲載することを禁じ、ローザ・ルクセンブルクはレーニンの「超中央集権主義」を非難したのであった。
 メンシェヴィキは統率の緩やかな集団であり、強力な指導者がいない代わりに、著名な古参革命家を数多く含んでいた。ゲオルギー・プレハーノフとともに1880年代に労働解放団を組織した仲間たちである。彼らはナロードニキからその政治活動を出発しマルクス主義を受け容れることで、農民ではなく工業プロレタリアートが革命の主体である、来るべき革命は「ブルジョア革命」である、との見解をとるようになった。
 党の目的は工業労働者の生活改善(労働組合の公認・8時間労働・社会保険)を目指した啓蒙と煽動にとどまり、そこでは陰謀家やテロリストや地下活動家は必要とせず、ブルジョア自由主義者をも巻きこんだ公然たる活動のみが許される<、という・・。>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AD
 また、メンシュヴィキは、レーニンの、暴力と窃盗を是とする考えを非難した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Lenin 前掲

(続く)