太田述正コラム#8703(2016.10.31)
<プーチンのロシア(その10)>(2017.2.14公開)

 (9)批判

 「いささか皮肉なことだが、著者は、ロシアのナショナリスト達を陰謀論者達であると非難するものの彼自身もまたある種の陰謀論者なのだ。
 種々の取るに足らない(fringe)極右のロシアの諸集団について描写しつつ、彼は、それに反する証拠を<自ら>提示しているにも関わらず、彼らが全てロシア政府の人質達(pawns)である、という推測を行うことを決して躊躇することができない。・・・
 最近読んだ他の諸物の若干と併せ、この本によって、私は。これまでよりも、ユーラシア主義とドゥーギンをもう少し真剣に受け止めなければならないということを説得された。
 しかし、著者がそう考えるほど、彼らが重要であるとの確信するところまでは、私は、いまだ至ってはいない。」(G)

3 終わりに代えて

 著者のような、プーチンのロシア、観は、どうやら、英国では通説化しつつあるようです。
 例えば、つい最近のBBCの記事に以下のようなものがありました。

 「・・・プーチンは、権力の座に就くや否や、ロシアの諸TV局のコントロールに着手した。
 そのプロセスは、今や完結した。
 今日、<ロシアの>TVで目にするのは、ロシア政府によって認められた(sanctioned)ものか、ロシア政府に同情的なものか、のどちらかだ。・・・
 <こうして、>真実は、政治的便宜主義に従属するに至った。
 このような、バランスをとるのが容易ではない<プーチンの>行為を支援するために、一つの哲学的な枠組みが構築されている。
 その主たる構築者達の一人がアレクサンドル・ドゥーギンだ。
 彼は、ロシアによるクリミアの併合、及び、東部ウクライナにおける戦争、への彼のいわゆる関与に対する米国の制裁対象になっているところの、思想家であり、夢想家(ideologue)であるのだ。・・・
 彼の著作は、ロシアの政界及び軍部の選良達の間でどんどんその影響力を増している。
 <彼は、>「米国は、戦争を始めたくないのであれば、自国がもはや<世界で>ただ一人の御主人ではないことを認識しなければならない。
 そういうわけで、シリアとウクライナにおける状況を踏まえ、ロシアは、<米国に対し、>「違う。お前はもはやボスではない」、と言っている。
 これは、誰が世界を支配しているのか、という問題だ。
 <それは、少なくとも米国一国だけではない、という・・。>
 <米国がそれを認めないのであれば、>戦争のみが、<かかるロシアの認識が正しかどうかに、最終的に>現実に決着をつけることができよう」<、と彼は言い放つ。>
 <注意すべきは、>ドゥーギン氏の、この喧嘩腰の矛盾を孕む考え(doublethink)は、欧米だけに照準を当ててはいるわけではない<、ということだ>。
 <それには、>ロシア国内用のメッセージも含まれているのだ。
 それは、普遍的な自由主義諸価値などというものは存在しないし、反対意見を許さない民主主義に生来的矛盾などない<、というメッセージだ>。・・・」
http://www.bbc.com/news/world-europe-37766688
(10月27日アクセス)

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[ベラルーシについて]

 ウクライナのロシアとの同質性と異質性については、これまで何度か取り上げる機会があったが、ベラルーシについては取り上げたことがないので、この機会に少し触れておきたい。

 「862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した。後代に書かれた原初年代記には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2#.E5.8F.A4.E4.BB.A3.E3.83.BB.E4.B8.AD.E4.B8.96 前掲

 ここまでは、現在のロシアとベラルーシ(とウクライナ)は同質だったわけだ。
 以下、ベラルーシの日本語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7
がなかなか充実しているので、抜き刷りを以下に掲げる。↓

 「12世紀から13世紀前半には・・・ベラルーシ<の地域には>・・・10前後の公国が存在し<ていたところ>、・・・団結してドイツ騎士団やモンゴル帝国と戦った。13世紀までにベラルーシの地域(ルーシと呼ばれる地域の北半)の公国はすべてリトアニア大公国に併合される。<しかし、>リトアニア大公国における貴族の大多数は実はリトアニア人(リトアニア語を母語とする人々)ではなくベラルーシ人(当時はルーシ人、のちリトヴィン人と呼ばれた)で、リトアニア大公国の公用言語はリトアニア語ではなくベラルーシ語(当時は通常はルーシ語と呼ばれ、さらに、リトアニア大公国の官庁で使用された公式言語であることから官庁スラヴ語とも呼ばれた)が使われ<た>。・・・
 1385年、・・・ポーランド・リトアニア合同が成立すると、ベラルーシを含むリトアニア大公国全域の貴族の間で文化や母語の自発的な「ポーランド化」が始まる。・・・
 この「ポーランドへの同化」現象は1795年までの三度に渡るポーランド分割によりベラルーシ地域がロシア帝国に併合されるまで続いた。この間、貴族層の家系の大半とその他ルーシ人の多くはこの時代までにローマ・カトリックに改宗を済ませ、母語もポーランド語を使用するようになっていたが、あいかわらずルーシ語を母語とし東方正教会を信仰していた者も農民層を中心に多数いた。・・・
 1830年11月に行われた大蜂起(十一月蜂起)が失敗に終わると、貴族たちを中心にポーランド系の多くの人々がロシア帝国を脱出し、西<欧>やアメリカ大陸の各国へ亡命した(これは「大亡命」と呼ばれる)。それでも民主ポーランドを復活させようとする人々は1863年に2度目の大蜂起(一月蜂起)を起こす。これがロシア帝国によって再び鎮圧されると、ポーランド貴族や商工民やインテリはキリスト教徒であるかユダヤ教徒であるかを問わず徹底的な迫害に遭った。その結果、この地域の中産階級以上の人々(ほぼすべてがポーランド人 - ポーランド化した家系の人々 - であった)は亡命するか、あるいは財産を没収されてほとんど無産者となり、中産階級そのものが滅亡した。その結果、ベラルーシに残った人々の大半は農民となり、ロシア帝国による直接支配が進んだ。ベラルーシの農民の大半はポーランド語を話すローマ・カトリック教会信者か、ルーシ語を話す東方正教会信者かのどちらかであった。前者(すなわちルーシ人からポーランド人となった者)はポーランドに近い西部に多く、後者(ルーシ人でい続けた者)はロシアに近い東部に多かった。・・・

⇒ベラルーシが、19世紀まで、いかに、ロシアとは異質の歴史を辿ったかが分かる。(太田)

(続く)