太田述正コラム#8689(2016.10.24)
<プーチンのロシア(その4)>(2017.2.7公開)

 (4)初期の群像

 「ユーラシア主義は、英国の知性学理論家のハルフォード・マッキンダー(Halford Mackinder)<(注6)(コラム#239、8512)>の諸理論に何らかのものを負っている。

 (注6)サー・ハルフォード・ジョン・マッキンダー(Sir Halford John Mackinder。 1861〜1947年)は、「イギリスの地理学者、政治家・・・オックスフォード大学では生物学を専攻しようとしたが地質学や歴史や法学を学び、そのいずれにも頭角を表した。法学の分野においては弁護士の資格を取得している。・・・1899年にオックスフォード大学が地理学院(the Oxford School of Geography)を開設したとき、マッキンダーはその初代の院長に迎えられた。さらに彼は1904年にロンドン大学に新設された政治経済学院(the Economics and Political Science)の院長に就任し、その後20年に渡って同学院の経営に専念するかたわら、経済地理の講義を続けた。・・・1910年に保守党と自由党の一部が参加した統一党として下院に当選を成し遂げ、1922年の選挙で敗退するまで下院に議席を持っていた。・・・1919年から1920年にかけては南ロシアにおける英国の高等弁務官としてオデッサに駐在し、白軍勢力をまとめることに苦労したが、これは成功しなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC

⇒「マッキンダーの理論は地政学の世界に大きな功績と影響をもたらしたが、その理論は大艦巨砲主義の思考に留まるものであり、次第に注目された航空機戦力などによる空軍力のシーパワーへの影響を軽視したため、マッキンダーのハートランド論は時代遅れであるという批判を受けることになる」と上掲に書かれていたのには驚きました。
 私自身、同様の批判を、マッキンダーというか、地政学一般に対してコラム#239以下で行ったところ、当時、このウィキペディアを読まなかったか、読んだとしてもそんな記述はなかったはずだからです。(太田)

 彼は、1919年に、「東欧を支配する(rule)者はハートランドの長となる(command)。ハートランドを支配する者は世界島の長となる。世界島を支配する者は世界の長となる」、と書いた。
 それは、大陸の大帝国群と英国及び米国の海洋(sea-borne)2帝国との間の文明群の衝突の公式(formula)であり、とりわけ、ナチスドイツのイデオロギー信奉者達に訴えるものがあった。

⇒「<イギリス>の東部にあるリンカンシャーでスコットランド系の医者の長男として生まれる」(上掲)というのですから、そんなムツカシイことを考えずに、ロシア相手のグレートゲームをユーラシア大陸全域にわたって繰り広げてきたイギリスの潜在意識を、スコットランド人が明るみに出した、という点で、同じスコットランド人たるヒュームやアダム・スミスが、イギリスの政治行動や経済行動についてやったのと同じようなことを、マッキンダーはやった、と言えそうですね。
 惜しむらくは、ヒュームやアダム・スミスとは違って、明るみに出した時期が遅すぎたということか、明るみに出した直後に、現実のイギリスは、いい意味では空軍の整備等、悪い意味ではグレートゲームの放棄、という形で、地政学を否定したとも言える行動に転じることになってしまいます。(太田)

 というのも、多くのロシア人達は、「ハートランド」を自分たち自身の国と同定したからだ。
 しかし、マッキンダーが彼の公式を考案する前から、ロシアの言語学者のニコライ・トルベツコイと彼の同僚のピョートル・サヴィツキ(Petr Savitski)<(注7)>は、欧州とアジアにまたがっているロシアは、それ自身の独特の経路を辿ることを運命付けられている、という思想を発展させていた。」(E)

 (注7)1895〜1968年。1919年にロシアを去り、トルコ、ブルガリアを経てチェコスロヴァキアにほぼ定住。第二次世界大戦後、10年間をソ連の強制労働収容所で過ごした後、チェコスロヴァキアに戻る。
http://connection.ebscohost.com/c/articles/33007838/life-imperial-dreams-petr-nikolaevich-savitsky-eurasianism-invention-of-structuralist-geography

 「<すなわち、>1920年代初期に、ロシアのエミグレ達の一集団が、破滅的であったところの、1917年の革命、及び、内戦に照らして、ロシアの歴史とアイデンティティの再解釈を始めたのだ。
 彼らは、ピョートル大帝の時以来の、ロシアを欧州化しようとする諸努力がこの国を弱体化した、と主張した。
 ロシア人達は、フランス人達やドイツ人達よりも、タタール人達や中央アジアの遊牧民達との間の方が共通点が多い、と。

⇒「国家や文化、言語の変遷において「ロシア民族」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していた。その地に暮らした東スラヴ系の諸部族はフィン系の民族と隣接しており、言語や文化、習慣において大きな影響を受けた。やがてその多くは同化し、ほかの地域の東スラヴ人とは異なる文化を築いていった。<事実、>ロシア人には、モンゴロイドに由来するフィン・ウゴル系遺伝子(Y染色体ハプログループN系統)<が>ある程度見られる。
 <また、>北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている、民族系統不明の人々「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行っ<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2#.E5.8F.A4.E4.BB.A3.E3.83.BB.E4.B8.AD.E4.B8.96
 フィン・ウゴル系民族。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%B4%E3%83%AB%E7%B3%BB%E6%B0%91%E6%97%8F
、「サモイェード語派の話者がほぼモンゴロイドであるのに対してフィン・ウゴル語派の話者はモンゴロイドとコーカソイドの混合であり、特にバルト・フィン諸語話者は完全なコーカソイドに近い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%B4%E3%83%AB%E8%AA%9E%E6%B4%BE
 「サモエード人またはサモイェード(・・・Samodijtsi, samoedy)とは、ロシア連邦北部のツンドラ気候地帯に住みサモエード諸語を話す先住民族の総称。人種的にはモンゴロイドに属する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A2%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%BA
といった、現在の学問的到達点に照らせば、ユーラシア主義者達の主張は、それなりの根拠があった、と言わざるをえません。(太田)

 この集団は、自分たち自身を「ユーラシア主義者達」と呼んだ。
 しかし、彼らは、ロシアの諜報機関の浸透に対して脆弱であり、すぐに、エミグレ達の間でさえ、影響力を失った。」(A)

 「3部に分かれているその最初の部の中で、・・・自分達が強いられた亡命というトラウマに対処すべく悪戦苦闘する中から、エミグレたる知識人達の一集団が、この革命の大災厄の原因を、ロシアが欧州の近代の諸哲学的観念を継受(adoption)したことに帰したことを、著者は示す。
 ユーラシア主義運動のこれらの創建者達にとっては、全人類共通の社会的進歩ないし単一の歴史的飛翔経路というものなどなかったのだ。

⇒欧米文明的、より正確にはアングロサクソン文明的なものとは違った、日本文明的な「全人類共通の社会的進歩ないし単一の歴史的飛翔経路というもの」が存在することを、我々は知るに至っています。(太田)

 オスヴァルト・シュペングラー(Oswald Spengler)<(注8)(コラム#1149、5730、7918)>の諸観念が木霊しているところの、共通の言語、文化、及び、地理的諸境界、でそれぞれ定義される、互いに異なる(discrete)諸文化と諸文明がある、と。

 (注8)1880〜1936年。「ドイツの文化哲学者、歴史学者。・・・ハレ大学・ミュンヘン大学・ベルリン大学の各大学に学び、哲学・歴史学・美術・音楽・数学などを学<ぶ。>・・・<米>国、ロシア(ソ連)といった非<欧州>勢力の台頭を受けて書かれた主著『西洋の没落』(Der Untergang des Abendlandes) [(1918〜22年)]は、・・・当時の<欧州>中心史観・文明観を痛烈に批判したもの」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/Oswald_Spengler ([]内)
 「シュペングラーは・・・まずギリシア・ローマ文化と西洋文化の比較をおこない、これをパターン(形態)に分け、それをエジプト文化・バビロニア文化・アラビア文化・インド文化・中国文化・メキシコ文化の6つの歴史領域にあてはめていった(後にロシア文化が加わった)。・・・
 次にシュペングラーがとりくんだのは、6つの歴史領域にひそむパターン(形態)が、共通してどのように変遷していったかということだった。ここでは「春・夏秋・冬」ともいうべき3段階をへて、どんな文化形態にも成長期・後期・没落期がおこっていることを"立証"した。特に工夫を凝らしたのは、各段階の現象や表象は地域と年代をこえて「同時代的」だとみなしたこと。特に工夫を凝らしたのは、各段階の現象や表象は地域と年代をこえて「同時代的」だとみなしたこと。・・・
 それでヨーロッパの現状がどこにあるか、シュペングラーは「秋」に入っていると断じた。>」
http://blog.goo.ne.jp/murokuni/e/17e9ae5f9d40d53e626e5b8356af414a

⇒シュペングラー説はナンセンスですが、歴史への文明論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8E
的アプローチは、シュペングラーによるものにせよ、ユーラシア主義者達によるものにせよ、絶対的に正しい、と言うべきでしょう。(太田)

 というわけで、彼らは、欧米とは異なった発展の道(path)を辿ることを運命付けられている、独特の「ユーラシア的」文明を発見した、と主張したのだ。」(B)

⇒私自身は、それをロシア亜文明とかつて名付けた(コラム#省略)ところです。(太田)

 「・・・言語学者のニコライ・・トルベツコイと民族誌学者のレフ・グミリョフ<だが、>・・・トルベツコイは、『東方へのエクソダス(Exodus to the East)』という1920年<出版>の巻の執筆陣の一人であり、それは、通常、ユーラシア主義の創建文書と考えられており、また、グミリョフは、ソ連とポストソ連に、多くのユーラシア主義的諸観念を紹介した責任があるとされている。」(G)

(続く)