太田述正コラム#8687(2016.10.23)
<プーチンのロシア(その3)>(2017.2.6公開)

 (3)前史

 「最初の1000年紀末のキエフ大公国(Kievan Rus)<(注4)>は、同時代の西方世界(West)のどこよりも洗練されていた、と主張することができた。

 (注4)「9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ・・・ウラジーミル1世≪(955?〜1015年。大公:978〜1015年)の時に≫・・・ビザンツ皇帝[の妹]・・・を妃に迎え、キリスト教を国教として導入した。・・・11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。国民国家史観を中心とした研究史においては、<いずれも東スラヴ族であるところの>ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの三国の共通の祖国とされる。・・・
 <英語国名の原語である>キエフ・ルーシ<は、>19世紀初頭のロシア帝国の歴史学者、ニコライ・カラムジンが『ロシア国家の歴史』において初めて用いた概念。大公座の置かれていた場所からこう呼ばれる。近代・現代の学術文献において広く用いられているが、中世・近世時代の史料では見られない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%A8%E3%83%95%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB1%E4%B8%96 (≪≫内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A_(%E3%82%AD%E3%82%A8%E3%83%95%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%A6%83) ([]内)
 キエフ大公国がキリスト教を継受した時、ビザンツ帝国で使用されていたギリシャ語聖書からキリル文字で書かれた東スラヴ語に訳された聖書が普及した。
 これに伴い、東スラヴ族は、ローマ法王庁の影響を免れたのみならず、初歩的なギリシャ哲学・科学・史書も東スラヴ語で身に付けることとなる。
 これに対し、地理的意味での中・西欧の知識人達は、ローマ法王庁の影響下に置かれたことはもとより、ラテン語を身に付ける必要があった。
 こういったことが、東スラヴ族が(他のスラヴ族を含む)中・西欧とは異なった文学や芸術を発展させた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Kievan_Rus%27

 しかし、この大公国は、13世紀にタタール(Tartars)によって殲滅された。
 そして、東スラヴ(Eastern Slav)の指導権は、キエフ大公国の小君主群(princelings)の一家が牛耳る北部森林群内の小さな町へと移った。
 モスクワ公国(Muscovy)、後の帝政ロシア、とその他の欧州との関係は、異端で合理主義的で法理的で冷徹で偽善的であると受け止められてたところの、世界の異国的な諸やり方(ways)に適応しなければならないことの大いなる不愉快と結合した、追いつきを演じるものとなった。
 ピョートル(Peter)の躍進は、トルストイ、ドストエフスキー及びスラヴ愛好者達(Slavophiles)等の多くのロシア人達からは、裏切りと目された。
 詩人にして外交官で会ったフョードル・チュッチェフ(Fedor Tyutchev)<(注5)>は、ロシア外務省の同僚達にこう言ったものだ。

 (注5)フョードル・イヴァーノヴィチ・チュッチェフ。1803〜73年。「「頭でロシアは分からない」・・・という言葉で知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%95
 モスクワ大哲学部卒、露外務省に入り、22年間外国で過ごす。
https://en.wikipedia.org/wiki/Fyodor_Tyutchev

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 どんなにお前達が彼女<(欧州)>の前でへりくだろうとも、
 彼女はその敬意をお前に与えることはない--
 というのも、彼女の目には、お前達は、ずっと、
 啓蒙主義の召使達ではなく農奴達のままなのだから。
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 現在、ロシアで流行している、ドゥーギンのユーラシア主義及びその他の同主義ほど極端ではない諸観念は、多分、ビョートル大帝が<(1709年の)>ポルタヴァ(Poltava)での戦い<(コラム#8160)>でスウェーデン人達に勝利を遂げた後に、敬意をと言明した・・「我々は、暗黒の中から光の中へ出てきた。我々を知らなかった人々は我々に敬意を表せ」・・ことのもう一つの反映なのだろう。
 これらの諸観念は、世界の偉大な諸国中の一つの国による叙事詩的な諸勝利と諸逆転、それは力と芸術的創造性に関する伝統的諸尺度に照らして偉大なる国でありながら、タタールの軛<(コラム#7088、7094、7098、7144、7163、7177、7232、7239、7284、7286、7288、7477、7718、8174、8512、8576、8595)>、動乱時代(Time of Troubles)<(コラム#7232、8158)>、<クリミア戦争における>1856年と<第一次世界大戦における>1917年の国の敗北、ロシア革命、ロシア内戦、強制労働収容所、ソ連の崩壊、そして国内における抑圧の伝統、という、応分を超える、国内外における大災厄群を経験させられた国である、という、彼らの歴史を説明するための、死に物狂いの方法(way)でも恐らくはあるのだろう。

(続く)