太田述正コラム#8673(2016.10.16)
<またまた啓蒙主義について(その18)>(2017.1.30公開)

 (8)ゴットリーブ批判

 「<古典ギリシャ哲学を扱った>前巻の主題が合理性だったとすれば、今回の巻のは新規さ(novelty)に焦点を当てている。
 すなわち、17世紀に、著者が、その特徴的な気取りでもって指摘するように、哲学は、全ての古い諸観念は疑わしいとの新しい観念」によって支配され始めた。
 デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」というスローガンでもって新鮮なる出発を果たそうと試みたことで有名だが、誰一人として、彼が何を言わんとしたのか確信が持てなかったし、著者によれば、そもそも、彼は「広範に誤解」されていた。
 著者は、チャールズ皇太子と法皇のヨハネ・パウロ2世を名指しして、この2人が、デカルトを、「我」をあらゆるものの基盤(foundation)とすることを試みるという、近代性にとって悪しき出発を遂げさせたところの、「主観主義者(subjectivist)」<(注21)>、と表現したことに異を唱える。

 (注21)「哲学で、真理や価値の基準を主観のうちにのみ帰して、それらの客観性を認めない立場」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E8%A6%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9-528029

⇒引き合いに出された2人が実際どんな表現を用いたのかは知りませんが、ここは首肯できます。(太田)

 彼は、デカルトが、経験諸科学の意義を認めるのを拒否した「合理主義者」とする見解もまた拒絶する。
 すなわち、彼は、その逆に、物理現象は小さい諸粒子の諸機械的相互作用によって生み出される、との原理の大胆な擁護者だった、と。

⇒ここは、首肯できません。
 この「原理」は「経験諸科学」によって導き出されたものではないからです。(太田)

 それに加えて、著者は、合理主義者達と経験主義者達との間の戦いについての諸物語を、19世紀の哲学者達によって、彼ら自身の目的(agenda)があって売り込まれたところの、「神話」として退ける。

⇒少なくとも、この本の書評群を読んだ限りでは、著者がそれに成功しているようには思えません。(太田)

 何十ものその他の諸神話も、この良く書かれたテンポの速い本の中で、それぞれにとって相応しい罰を受ける。
 もし、あなたがトマス・ホッブスが無神論者で人間の本性について陰鬱な見解をとったと見ている(assumed)とすれば、考え直した方がいいし、もしあなたがジャン=ジャック・ルソーが平和愛好的な「気高い野蛮人(noble savage)」を信じていたと思っていたならば、それはとんだ間違いだ、と。

⇒「ルソー<は、>・・・1755年に発表した『人間不平等起源論』において、自然状態と、理性による社会化について論じた。ホッブズの自然状態論を批判し、ホッブズの論じているような、人々が互いに道徳的関係を有して闘争状態に陥る自然状態はすでに社会状態であって自然状態ではないとした。ルソーは、あくまでも「仮定」としつつも、あらゆる道徳的関係(社会性)がなく、理性を持たない野生の人(自然人)が他者を認識することもなく孤立して存在している状態(孤独と自由)を自然状態として論じた。無論、そこには家族などの社会もない。理性によって人々が道徳的諸関係を結び、理性的で文明的な諸集団に所属することによって、その抑圧による不自由と不平等の広がる社会状態が訪れたとして、社会状態を規定する(堕落)。自然状態の自由と平和を好意的に描き、社会状態を堕落した状態と捉えるが、もはや人間はふたたび文明を捨てて自然に戻ることができないということを認め、思弁を進める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%BC
 ホッブスは、イギリスの個人主義という主たる側面を踏まえ、また、ヒュームはイギリスの人間主義という従たる側面を踏まえ、その思想を展開したのに対し、ルソー言う人間の自然状態なるものは、古今東西、存在したことがないところの、彼の空想というか、妄想の産物にしか過ぎないのであり、そんなものをもとに組み立てられた、彼の一般意思等の「思想」など、三文の値打ちもない、と言うべきでしょう。
 しかし、そんな値打ちのない一般意思の「思想」が、19世紀以降の人類をひどい目に遭わせることになる、(私の言うところの、)民主主義独裁の諸思想を生み出すことになるのです。(太田)

 ジョン・ロックもまた、「しばしば誤解された」。
 すなわち、彼は、「経験(experience)」を「生来の(innate)諸観念」より好んだという評判があるが、彼の主眼は、頭は、知識の構築に関し、受動的な受容器(receptacle)ではなく、独立した機関(agent)である、というところにあった。

⇒「ロックは・・・経験論の代表的人物の一人に数えられるが、彼は経験はあくまで観念の供給源でしかないとみなしており、その点では彼の哲学における経験の役割は限定的であ<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF
という言い方もできますね。(太田)

 そして、近代的諸自由の構築者(architect)として寿がれているけれど、彼は、「当時の諸基準に照らしてさえ」、リベラルとは到底言えなかった。

⇒著者が本そのものでどのように書いたのか知りたいところですが、「リベラル」の定義にもよるとはいえ、ここも、私は首肯できません。 
 その理由ですが、以下述べることは、取りあえずのものであり、機会があれば、改めて詳細に論じたいと思います。
 ロックが自然状態で個々人が等しく諸人権を持っているとした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%8A%9B%E5%88%86%E7%AB%8B#.E4.B8.89.E6.A8.A9.E5.88.86.E7.AB.8B
のは、自然状態ではなく、イギリスの古来よりの実態についての、国民の手続き面での保護より実体面での保護を強調する形で歪曲した描写であるところ、米独立革命の過程で、米独立論者達によって、英国王/議会による北米植民地人の人権侵害、それに対する(後述の)抵抗権の発動、という言い掛かりに活用されるようになった、というのが私見であって、抵抗権と結び付いているところの人権の重視がリベラル、というイメージである以上は、ロックはリベラルだからです。
 なお、ロックの唱えた抵抗権(上掲)は、イギリス内戦の際の、主権を持っている議会によるところの、この議会に反抗した国王勢力に対する弾圧を、人権侵害した政府に対する国民による抵抗、にすり替えた歪曲である、というのが私見です。
 ちなみに、同じくロックが唱えた三権分立(上掲)は、立法権の優位の下で、立法権による人権侵害を防止するために、行政権と司法権にそれぞれミニ抵抗権を与えるという形で議会主権を歪曲し水で薄めたもの、というのが私見です。
 このロック流のなまくら三権分立を合理論的に誤解・歪曲して完全三権分立を唱えたのがフランスのモンテスキューであり、この完全三権分立制を独立した米国が採用したことが、この制度を継受することになった世界の国々で国家運営において機能不全をもたらした、という悲喜劇は、皆さんご承知の通りです。(太田) 

 他方、バールーフ・スピノザの、神を自然と同値にしようとの試みは、魅力的にしてもっともらしく見えたし、ゴットフリート・ライプニッツが、あらゆるものが「存在しうる諸世界のうちの最上のものにおける最上のもの」である、と語った時、彼は人生がまことにもってひどいものであることを否定したわけではなく、単に、それについて我々が殆どどうにかすることはできないことを想起させたのだ。

⇒ライプニッツに関して、ここに書かれていることの全体についてコメントする能力も時間も私にはないので、彼の「人生」が、事実、「まことにもってひどいものであ」ったことだけに触れておきます。
 そのほんの一例ですが、彼は、「三十年戦争の後遺症がまだ残っていたドイツという後進国出身<であり、彼自身が学んだ>・・・ライプツィヒ大学<を含む>・・・当時のドイツの大学はイギリスやフランスに比べて立ち遅れていた<ため、>ライプニッツの<モナド論等の>理論を正当に理解・評価できる人はあまりいなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84 
ことがあげられます。(太田)
 
 デイヴィッド・ヒュームは、自分自身<の考え>を大真面目に受け止めすぎるようなことはなかった。
 彼は、たゆまぬ、良きユーモアで高度に危険な哲学的諸活動(manoeuvres)を行ったのだ。

⇒スコットランド人のヒュームは、ユーモアと切っても切り離せないイギリス人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%82%A2
以上にイギリス人になり切っていたな、と改めて思いますね。(太田)

(続く)