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太田述正コラム#8671(2016.10.15)
<またまた啓蒙主義について(その17)>(2017.1.29公開)

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[18世紀前半までの欧州への仏教知識の伝播]

一、問題意識

 仮に、ヒュームが、フランスでイエズス会士達から仏教の知識を仕入れたのが事実であったとして、今度は、このイエズス会士達がどこからその知識を仕入れたのか、より一般的には、その頃までに、欧州(地理的意味。本稿中は以下同じ)に、仏教について、誰が、どのように知識を伝えていたか、に興味が湧く。
 欧州諸国が世界に進出し始めたのは15世紀末で、それから18世紀末までの間、仏教がまだ生きていたのはどこか、そして、そこをどんな欧州人が訪れたか、が問題になる。

二、支那・朝鮮・東南アジア

 当時、支那では仏教教団は殆ど目立った活動をしなくなっていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
ので、イエズス会士等の欧州人が支那の仏教を研究すること自体が考えにくいし、朝鮮は支那、日本(含琉球)等以外には鎖国状態であり、欧州人は禽獣扱いだった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE#.E8.A5.BF.E6.AC.A7.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82
ので、欧州人は入国すらできなかった。
 東南アジアに関しては、インドネシアやマライ半島は既にイスラム化していた
http://aranavihaara.web.fc2.com/kusaladhamma.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2
し、タイは当時ビルマの属国だったが、仏教がヒンドゥー教によって事実上「汚染」されていた上、17世紀末から鎖国的となっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%82%BF%E3%83%A4%E7%8E%8B%E6%9C%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC
また、ビルマやインドシナにはまだ欧州諸国の手が及んではいなかった。
 (ビルマについては上掲、インドシナに関しては、下掲。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E5%B8%9D%E5%9B%BD )

 そこで、残される候補地は、日本、セイロン、チベット(含むモンゴル)、ということになる。

三、日本

 まず日本だが、16世紀末に初めて日本にキリスト教の布教を行ったイエズス会士達は、「当時の日本において最も勢力を有する宗教<は>・・・一向宗だと<いう認識の下、>・・・攻撃の主たる矛先をそれに向け」ていたところ、一向宗も、法相宗等の仏教各派のうちの1派である浄土宗の一環であること、そのほか、儒教や神道も日本には存在することも認識しており、
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/57688/1/asia3hazama.pdf
その一方で、彼らは、当時の日本の最高権力者であった信長にしても秀吉にしても、本心、このいずれも信じていないこと、を見抜いており、
http://nihonshiki.sakura.ne.jp/Christianity/Frois.html
この2人が、日本人の過半の宗教観を代表するものとの認識の下、そこにキリスト教布教の大きな可能性を見出していた、と考えられる。
 よって、彼らが、仏教の各派の教義を深く研究したり、仏教各派に共通する日本における仏教の基底に存在するものを追求したりする必要性はなかったと思われ、事実、研究、追求の形跡はない。

 また、「長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師<の>・・・エンゲルベルト・ケンペル<が>・・・17〜18世紀に日本に渡った際<の>日本での見聞をまとめた」『日本誌』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%8C
・・出版は1727年・・には、そもそも、日本の仏教への言及はなさそうだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%AB

 従って、仏教に関する知識が日本から欧州に伝わったとは考えられず、現に、伝わってはいなさそうだ。

四、セイロン

 1505年にポルトガル人がコロンボに商館を建設し植民地化(ポルトガル領セイロン、1505-1658)を開始するが、その支配は沿岸地域にとどまった。そして、17世紀の中頃からポルトガルに代わりオランダが植民地化(オランダ領セイロン、1658-1796)を開始するが、やはり全域的支配には至らないまま、セイロンは英領時代を迎えることとなる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AB
https://en.wikipedia.org/wiki/Sri_Lanka
 この間、セイロンの仏教に言及された史料・・仏教について研究したものではない・・は、オランダによるわずか一件、ポルトガルと抗争中の1651年のものしかないようだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Buddhism_in_the_Netherlands

 従って、仏教に関する知識がセイロンから欧州に伝わったとも考えにくい。

五、チベット
 
 チベットに関しては、イタリア人たるイエズス会士のイッポリート・デシデーリ(Ippolito Desideri。1684〜1733年)が、チベットの言語と仏教を同地の僧院等で何年にもわたって研究してから帰欧している。
http://europeanbuddhism.org/about/buddhism/buddhism-europe/
 彼は、まず、1727年8月にフランスに帰着して、枢機卿達、貴族達、及び国王ルイ15世に面会した後、1728年1月にローマに帰国し、チベットについての知見を書き記すが、法王庁により、その出版を禁じられる。
 その存在が明るみに出るのは19世紀末になってからだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ippolito_Desideri
 よって、フランス滞在中のデシデーリからフランスのイエズス会士が聞き取った、チベット仏教についての知識が、更に、同地のイエズス会士らを通じて、1730年代に、訪仏していたヒュームに伝わった、という可能性くらいしか考えにくい。

 但し、仮にそうだとすると、私は、バークリー(1685〜1753年)もまた、仏教、とりわけ唯識論、についての情報を得て、それを参考に自分の思想を形成したのではないか、と勘ぐっていたところ、彼が欧州に何度も長期間滞在したのは、1714年から20年にかけてだけである
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Berkeley
ことから、残念ながら、その可能性は小さい、ということにならざるをえない。

六、蛇足--ヒュームに係る疑問

 ヒュームは、『人間本性論』(1935年執筆、1739年匿名出版)の中で、「わたしは、黒人と一般に他の人間種のすべてが生まれながらに白人より劣っていると思っている。白人以外に、どんな他の肌の色を持つ文明化された民族もまったく存在しなかったし、行動であれ思弁であれ、卓越した個人でさえもまったく存在しなかった。かれらのあいだにはどんな独創的な製品も、どんな芸術も、どんな科学も、決して存在しなかった。」と記しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0
この箇所の概要をカントが引用している(前述)わけだが、前段は、ヒュームが直接間接に経験した事実に基づいていて、たまたま、黄色人種については、ハズレ的人物に係る経験しかなかった、と解することができても、後段は、彼自身が、仏教の指導者達が卓越した「思弁」を行ったと認めたからこそ、その「思弁」を援用した(と思われる)ことと矛盾する。
 私の想像だが、ヒュームは、白人種であるアーリア人がインド亜大陸を征服して支配階級となったという知識があり、仏教の指導者達も白人種である、という認識だったのではあるまいか。
 (現在では、アーリア人は語族上インド・アーリア語族に属するとはいえ、インド・アーリア語族=白人種、ではないとされるとともに、そもそも、白人種、という概念は否定されるに至っている。しかも、仮にアーリア人の肌が白かったとしても、亜大陸原住民と混血した結果、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E8%AA%9E%E6%B4%BE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%BD%E3%82%A4%E3%83%89
彼らの肌も浅黒くなってしまっているはずであり、いずれにせよ、インド亜大陸の現在の大部分の人々の肌は浅黒いところだ。)
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(続く)

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