太田述正コラム#8661(2016.10.10)
<またまた啓蒙主義について(その12)>(2017.1.24公開)

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[唯識論の意義]

 唯識論を私は評価していない、ということを申し上げたところだが、にもかかわらず、日本文明において、その果たした意義は大きい、という私の仮説的見解を、この際、補足的に紹介しておきたい。

 本論に入る前に一言。
 「三島由紀夫の最後の作品となった『豊饒の海』四部作<が>唯識をモチーフの一つに取り入れている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
ことは、結構知られているけれど、それは、輪廻を唯識論的に捉える
http://blog.goo.ne.jp/konsaruseijin/e/0f04970f70bdbbc09525dada09c4ea9a
という限りにおける、私に言わせれば、唯識論の本来意図したものからすれば二義的な部分を「モチーフの一つに取り入れ」ただけであって、そんなことは、三島文学に心酔する物好きだけが記憶にとどめておけばよかろう。

 さて、日本人の大部分にとって、下掲に登場する、興福寺、法隆寺、薬師寺、や清水寺は、心のふるさとだろうが、その建築群や仏像群だけではなく、これら寺院が拠っていて、守り続けてきたところの、法相宗の教義の根幹にある・・それは既述したように、大乗仏教の全教派の教義の根幹にもあるはずだが・・唯識論(注12)にもっと関心が寄せられてしかるべきではなかろうか。↓

 (注12)唯識論は、「東アジアには唐時代に玄奘(三蔵法師)の仏典請来により体系がもたらされ、唯識を元に法相宗が立てられ<、それが>日本へは奈良時代に伝来し」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE 
「南都六宗のひとつとなった。その伝統は主に奈良の興福寺・法隆寺・薬師寺、京都の清水寺に受けつがれ、・・・倶舎論(くしゃろん)とともに仏教学の基礎学問として<日本では>伝えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
(参考)『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)は、・・・<唯識派に転ずる以前の説一切有部時代の>世親・・・を作者とするインドの仏教論書である。・・・ 近年の研究では世親の<この書の中>の立場の多くは『<唯識>論』にトレースできることが指摘されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%98%E9%81%94%E7%A3%A8%E5%80%B6%E8%88%8E%E8%AB%96
 従って、「世親<は、最初から>・・・唯識学派・・・の学匠であったと仮定するほうが、はるかに合理的ではないか」という意見」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A6%AA
に説得力がある。

 というのも、支那においては、「武周朝(690年〜705年)に・・・華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰え、安史の乱や会昌の廃仏によって致命的な打撃を受けた。その後、宋・元の頃に<支那>仏教史では、法相宗は姿を消したと考えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97
ことから、恐らく、唯識論そのものが忘失してしまった、と思われ、それは、恐らくは、日本以外の大乗仏教全体・・但し、ここでもチベット仏教を除く(典拠省略)・・についてもあてはまる、と思われるからだ。
 私が強調したいのは、唯識論の中身そのものは評価できないけれど、中身の議論を展開する際に用いられた因明(論理学)は高く評価されるべきことだ。

 因明については、下掲に目を通されたい。↓

 「因明(いんみょう・・・)とは、インドでおこなわれていた広義の論理学を指すものの仏教での表現で、近年は仏教論理学などとも言われる。・・・
 論理それ自体の真理性を追求するアリストテレスに始まる西洋の論理学と異なり、インドでは各々の立場からの真理到達(輪廻からの解脱など)の妥当性を問う側面が強かったため、認識論や存在論も含めた学問として発達した。・・・
 <因明に係る>陳那とその弟子の著作は、玄奘によって<支那>にもたらされ、日本においても研究され>、>・・・奈良時代にはカント哲学の二律背反の問題に当たるものが論じられていた。
 <但し、法称>の著作<は>漢訳されず、日本には名前しか伝わらなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%98%8E
 「陳那(じんな、ちんな・・・ディグナーガ、480年頃-540年頃)は、唯識の立場からの新しい仏教論理学(=因明学)を確立した・・・唯識派の・・・思想家<であり>・・・、世親のもとで唯識と論理学を学んだと伝えられる。その伝統はインド論理学最高峰といわれる法称・・・に受け継がれた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%82%A3
 「法称(ほっしょう、ダルマキールティ・・・)は、7世紀中葉のインド仏教最大の知識論の学問僧。唯識派に分類される」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%A7%B0

 上掲に出てくるように、法称の因明、すなわち、因明が、「インド論理学最高峰」だというのが本当だとすれば、その後、インド亜大陸においては論理学は衰退した、ということになるわけだが、このかつてのインド論理学について、欧米において、下掲のような評価もなされているところだ。↓

 「<既に、>オーガスタス・ド・モルガン<は、>・・・インド論理学の重要性について1860年に次のように記し<たものだ>。すなわち、「二つの人種が数学を打ち立てた、というのはサンスクリットを用いる人種とギリシア語を用いる人種なのだが、彼らは論理学の形式的体系を独立に打ち立てた二つの人種であった。」と。
 <そして、>今日、<欧米の>数学者はインド数学の<欧米の数学>への影響を意識している。例えば、ヘルマン・ワイルがこう書いている。「西洋の数学は過去数世紀間、ギリシア人の考え方から逃れて、インドに起源をもつとされさらにアラブ人によって我々にもたらされた考え方に従ってきた。その考え方では数の概念は幾何学の概念としてより先に論理学の概念として現れる。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6#.E4.BB.8F.E6.95.99.E8.AB.96.E7.90.86.E5.AD.A6

 以上を踏まえ、相当単純化して申し上げるのだが、非欧米世界において、論理学が生き続けたのは、基本的に日本においてのみだったということになる、と言えるのではあるまいか。

(続く)