太田述正コラム#8649(2016.10.4)
<またまた啓蒙主義について(その6)>(2017.1.18公開)

 知識の起源はこれらの全思想家達にとって確かに関心事項だったのだから、この説明の仕方にも若干の真実はある。
 しかし、そのキャリアの多くをジャーナリストとして費やした、・・・学究ではないところの、この著者は、彼らが、もっと広い世界に位置づけられていたことを見て取る。
 彼らの思想は、それより前の哲学だけではなく、政治、宗教、そして科学、つまりは、彼らの諸時代(times)の知的かつ精神的生活の総体、によって満たされていた。
 そして、それは、彼らの諸時代が、極めて騒然たるものであったので、彼らは、かくも急進的な形で考えることができたのだ。
 あらゆるものが争奪対象となる時代群(eras)は極めて希であり、それが、哲学を高度に生産的なものにしたように思える。
 著者は、依然として我々にとって重要な(matters)欧米哲学の多くは、紀元前5世紀と4世紀のアテネ、そして、17世紀と18世紀の<地理的意味での>西欧、の産物である、と指摘する。・・・

⇒「ゴットリーブが、古典ギリシャ哲学を欧米哲学の一環と見ていること」(前出)がはっきりしましたね。(太田)

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[「ギリシャ文明の東方の思想に及ぼした大きな影響」と「バークリー」(その1)]

 インド・グリーク朝滅亡後も、インド亜大陸北西部は、長くギリシャ文明の強い影響下にあり続けたことを忘れてはならない。↓

 「紀元前2世紀、モンゴル高原の覇者となった匈奴は西域攻略を開始すべく、手始めとして敦煌付近にいた月氏を駆逐した。月氏はイシク湖周辺にまで逃れ、もともとそこにいた塞族(サカ人〈=スキタイ人〉)を追い出してその地に居座った。追い出された塞族は縣度(パミール高原、ヒンドゥークシュ山脈)を越えてガンダーラ地方<や>・・・途中のパミール山中に・・・国を建てた・・・。<そして、>・・・紀元前85年頃には・・・西北インドに侵入し、インド・グリーク朝を滅ぼして自らの王国・・・<である>インド・スキタイ王国<(Indo-Scythian Kingdom)>・・・を築いた<が、>・・・インド・グリーク朝の文化を受け継<いだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%8E%8B%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AB (〈〉内)
 「インド・スキタイ王国は、最後の王・・・が紀元前12年頃に死去するまで存続した。 西暦20年頃、[スキタイ人系の]パルティア人の征服者の1人、ゴンドファルネスは、パルティアからの独立を宣言し、征服した領域にインド・パルティア王国を建設した。・・・
 この王国は何とか1世紀ほど存続した<が、>・・・北インド地方は75年頃にはクシャーナ朝のクジュラ・カドフィセス<(後述)>によって再征服された。その後、王国の領域はほぼアフガニスタンのみに限定された。・・・
 <ギリシャ文明下、ないし、ギリシャ文明の強い影響下、(どちらもインド・ヨーロッパ系であるところの、)ギリシャ人とパルティア人が大乗仏教の成立や北伝に決定的役割を果たしたわけだ。(太田)↓>
 <ちなみに、>226年のサーサーン朝による支配の後も、パルティア人の孤立した領土が東方に残存した。2世紀から、中央アジアの仏教伝道師は中国の首都洛陽や南京で、仏典の翻訳活動によって有名となった。現在知られている限り、最初に仏典を<漢>語に翻訳したのはパルティア人の伝道師であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%8B%E6%B0%8F%E6%97%8F ([]内)

 さて、クシャーナ朝のカニシカ王も仏教の保護者として有名だが、それはどう評価すべきだろうか。

 「紀元前2世紀、匈奴に圧迫されて移動を開始した・・・イラン系・・・遊牧民の月氏は、中央アジアのバクトリアに定着した。これを大月氏と呼ぶ。・・・
 <大月氏・・ではなく、それ以外のイラン系との説もあるが・・の、>クジュラ・カドフィセスは<大月氏の諸部族を統一し、クシャーナ朝を称していたが、>カーブル(高附)を支配していたギリシア人の王ヘルマエウス(又はヘルマイオス)と同盟を結び共同統治者とな<るも>、やがてヘルマエウスを倒してカブールの支配権を単独で握った。・・・
 <クシャーナ朝の四代目でカドフィセスの曽孫の>カニシカ1世の時(2世紀半ば)、・・・<彼は>仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。・・・ただし、王家の間ではゾロアスター教などイランの宗教も崇拝されていた・・・このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラなどを中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。この時代に史上初めて仏像も登場している。・・・
 クシャーナ人の使用した言語は、中期イラン語で東イラン語に属すと考えられるバクトリア語である。アラム系文字で筆記される場合が多いイラン語としては唯一ギリシア文字系で筆記された・・・
 「<カニシカ王は、>ギリシア語の勅命を発し<たが、>その後(治世の極初期に)アーリア語(バクトリア語)にした・・・
 カニシカ王の跡を継いだのは、おそらくカニシカの息子であろうと言われているヴァーシシカ王である。しかし、ヴァーシシカ王以後、クシャーナ朝に関する記録は極めて乏しい。ヴァーシシカは最低でも4年間は王位にあったことが碑文の記録からわかるが、その治世がいつ頃まで続いたのか全くわかっていない。
 ヴァーシシカに続いて、やはりカニシカ王の息子であると考えられているフヴィシカが王位についた。フヴィシカ王は40年前後にわたって王位にあったことが知られている。フヴィシカに関する碑文などがかなり広範囲から見つかっており、カニシカ王の死後は記録が乏しいとはいえ、クシャーナ朝自体は強勢を維持していたと考えられる。
 3世紀頃、フヴィシカの跡を継いでヴァースデーヴァ(バゾデオス<=>・・・波調)が王位についた。・・・
 <この>ヴァースデーヴァはサーサーン朝の王シャープール1世と戦って完全な敗北を喫した・・・
 <そして、>クシャーナ朝の旧領土はサーサーン朝の支配下・・・サーサーン朝の王族によって統治された。これは通例クシャーノ・サーサーン朝(クシャノササン朝)と呼ばれる。クシャーノ・サーサーン朝が発行したコインなどはサーサーン朝様式よりもクシャーナ朝の様式に近く、おそらくは多くの面においてクシャーナ朝の要素<、すなわち、ギリシャ文明的要素(太田)、>を継承したと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E6%9C%9D
 「クシャーノ・サーサーン朝・・・は、3世紀と4世紀、及び6世紀から7世紀の間、インド亜大陸の北西部に支配を確立した・・・
 <この王朝の存在により、>様々な仏教の影響がマニ教に浸透したと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D
 「マニ教(・・・Manichaeism)は、サーサーン朝ペルシャのマニ(216年〜276年または277年)を開祖とする二元論的な宗教である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99

 すなわち、ダルマを体得したマウリヤ朝のアショーカは同朝を瓦解させたけれど、仏教・・大乗仏教と考えてよかろう・・に帰依したクシャーナ朝のカニシカ王は同朝を瓦解させていないわけだが、その理由については、上掲を踏まえると、以下の3つが考えられる。

一、カニシカは、インド・グリーク朝の歴代君主達同様、統治のために仏教を利用しただけで、真実、帰依はしていなかった。
二、帰依したが、既に大乗仏教からは、ダルマが失われていたので、ダルマを体得できなかった。換言すれば、アショーカと違って、人間主義者になれなかった。
三、ダルマを体得し、人間主義者になったために、彼の時代で、事実上、クシャーナ朝は崩壊しており、その後の二代の時代は、名存実亡状態だった。
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(続く)