太田述正コラム#8852(2017.1.14)
<皆さんとディスカッション(続x3222)/対露百年戦争勝利を記念して(その3)--戦間期の日露冷戦(補遺)(2017.1.14東京オフ会)>

      --皆さんとディスカッション(続x3222)--

<太田>(ツイッターより)

 元号存続の是非を巡って議論が起こっている
http://news.livedoor.com/article/detail/12536692/
けど、いいことだ。
 特定の天皇の在位中は元号を変えない、というのは明治以来の歴史でしかないこともあり、今上天皇退位という機会をとらえて、少なくとも元号の公的文書での使用は原則止めたらどうだろうか。

<太田>

 関連記事だ。
 BBC電子版が元号についての記事を掲げた。↓

 Japan emperor: How abdication could usher in a calendar change・・・
http://www.bbc.com/news/world-asia-38592286

<太田>(ツイッターより)

 「公館前に少女像「望ましくない」 韓国外相、理解求める…」
http://www.asahi.com/articles/ASK1F54QRK1FUHBI019.html?iref=comtop_list_int_n04
 見苦しいぞ!
 訥言敏行
http://fukushima-net.com/sites/meigen/1243
だよ、チミー。
 元々エセ儒教国だったところ、漢字を廃止するのと同時に『論語』も忘れちゃったんだろうな。

<TQU4aE4M>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

 <これまでのディスカッションで太田さんは>皇室典範改正云々<を論じているが、そんなこと>より天皇制を廃止した方がいいでしょう。
 ハッキリ言って百害あって一利なし、(古来の)日本人が真の覚醒によって独立国を目指したいのなら、いつまでも有り難がって拝むのは如何にして愚かなる事かを自覚して欲しい。

⇒今上天皇と皇太子時代に言葉を交わして感心してしまった、なんてことがなけりゃ、私だって今頃キミと同じようなことを言ってたかもしれないが、その場合、キミと違って、「百害」がなんであるかを具体的に指摘してたと思うで。
 (豚肉のロースはとんかつに限る、ソテーなんてとんでもないって程度の他愛ない話なら、具体的理由なんて必要ないけどね。)(太田)

<2W4UyuC2>(同上)

 国体ぶっ壊せ!って共産党員かよw。

<TQU4aE4M>(同上)

 君、短絡すぎるよ。
 天皇制の否定=共産党 ププッ。
 日本の独立なんて共産党の人は言わないし、軍隊は必要だし。
 今時、本気で天皇は万世一系の男系男子だとでも言うのですか?

⇒それはまた別の話。(太田)

 出自の不明な天皇・皇族を有り難がっている諸君たちに呆れているだけだよ。

⇒それがキミの「具体的理由」かい?
 出自で人や一族を差別するとはご立派なこった。(太田)

<OhtNhtOw>(同上)

 「百害」とやらについて、とりあえず説明してもらえないかい?

<hwoo7VKn>

 「三島由紀夫とは何者だったのか・・・」
http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200911240000/

 三島は極端な運動音痴であることに劣等感があったんでしょう。
 だから、文学でも私生活でも虚像を演じ続けていたんだが、ついに破綻してしまったんでしょうね。

<太田>

典拠の主の指摘を「運動音痴」に要約したってのは大した読解力ですね。
 ただ、申し訳ないけど、この指摘、完全に誤りだと断定できる。
 どうしてそう言えるか、本日のオフ会の過程で説明するんで、有料読者じゃない人は、3か月半後に「オフ会次第」が公開された時に読んでね。
 もう今じゃ、三島由紀夫と言っても昔の人なんだろうけど、彼の「自殺」の真の原因は何か、私がこの前書いたことを一旦忘れてもらって、改めて、読者諸君の推理を聞かせて欲しいな。

<太田>

 それでは、その他の記事の紹介です。

 文中に登場する「国家」といった近代用語の日本での起源をもっと知りたいな。↓
 
 「坂本龍馬--暗殺5日前の書簡全文・・・」
http://mainichi.jp/articles/20170113/k00/00e/040/288000c
http://mainichi.jp/articles/20170113/k00/00e/040/286000c

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <中共訪日客達にポイ捨てしないよう注意。日本へ行けキャンペーンの一環。↓>
 「・・・今日頭条は・・・日本は中国と違い、ゴミ箱を見つけることは「非常に困難」であると指摘し、ゴミ箱が見つからないからと言ってポイ捨てをすると法律によって処罰される可能性もあると紹介、「日本を訪れるならばゴミの処理方法を知っておくべき」であると伝えている。
 記事はまず、日本の街中にゴミ箱が設置されていないのは「費用がかかること」、「街の衛生状態にかかわること」、「安全リスクが生じること」という3点が理由だと紹介した。街中にゴミ箱を複数設置すれば、それだけ清掃員などの人件費やゴミ回収に関する各種費用がかかることになると指摘。日本では人件費が高いため、ゴミ箱を設置するための人を雇うのは費用対効果として割に合わないと論じた。
 続けて、街中にゴミ箱が存在するとどうしても悪臭や害虫の発生につながるとし、「街の衛生状態にかかわる」と指摘、これも日本でゴミ箱がない理由の1つだと伝えた。さらにゴミ箱は「安全面でのリスク」という考え方もあるとし、「かつての日本では街中にゴミ箱があった」と紹介する一方、1995年の地下鉄サリン事件をきっかけにテロ防止の観点から公共のゴミ箱がなくなっていったことを紹介した。
 このように、日本では複数の理由から公共の場所にゴミ箱がほとんど存在しないとし、中国の読者に向けて、日本を訪れるならば「日本滞在中は常に小さな袋を持ち歩き、くれぐれもポイ捨てしないよう」にと戒めている。」
http://news.searchina.net/id/1627067?page=1
 <中共訪日客に冬の北海道の注意喚起。これも日本へ行けキャンペーンの一環。↓>
 「・・・今日頭条は・・・「春節に北海道へ行く人は注意せよ 暴風雪に遭遇したらどうしたらいいか」とする記事を掲載した。記事は、冬の北海道は白銀の美しい景色や、雪に関するアクティビティを楽しむことができ、この時期における日本の人気観光地の1つであると紹介。一方で「厄介なことがある。それは、暴風雪に遭遇することだ」とした。
 そのうえで、冬の北海道を訪れるうえで注意すべき点について解説している。まず、面積の広い北海道では地域によってかなり気候が異なる点を挙げ、道北・道東・道央・道南それぞれの気候の特徴を紹介した。暴風雪のほかに、内陸では氷点下20度になることもある点について注意を呼びかけた。
 そして、旅行中に不幸にも暴風雪に遭遇してしまった場合は「危険を冒して外出することなく、ホテルでやり過ごすのが最も安全」と説明。札幌などでは地下街をぶらつくことは可能であり、危険度も比較的低いとした。また、自由旅行で帰国便が欠航となった場合は、リスケジュールしたうえで速やかに当日の宿泊場所を確保すべしと伝えている。
 記事はさらに「くれぐれも」と念を押したうえで、「雪での自動車運転を軽々しく試そうとしないように。特に何の経験もない人が暴風雪に遭遇したら大変なことになる」とした。そして「冬の北海道に行く際は、心理的な準備が必要だ。暴風雪に遭遇した時のプランを用意しておくのがベストである」と呼びかけた。」
http://news.searchina.net/id/1627090?page=1
 <カズを通じて日本のサッカー文化を称賛。↓>
 「・・・捜狐は・・・「50歳でもプロで活躍できる、彼の不老伝説は決して偶然の産物ではない」とし、そのプロ選手としての姿勢を賞賛する記事を掲載した。
 記事は、背番号11を背負う三浦に対するリスペクトとして、クラブが「1月11日11時11分」に契約更新を発表したと紹介。「人びとに敬意を抱かせるのは、彼のプロとしての心構えだ」と説明した。そして、以前「名探偵コナン」の劇場版に本人役で登場したこと、「キャプテン翼」のストーリーが三浦の経歴からインスピレーションを得たものとされることから、「彼の深い影響力を知ることができる」、「彼は世界のサッカーを見てきた生きる化石なのだ」と伝えている。
 また、これまでの三浦の足跡について「まるでファンタジーのようだが、決して偶然ではないのである」とし、小さいころから良い生活習慣を保ち、終始自らを厳しく律するとともにハードなトレーニングをこなしてきたと説明。「プロ選手がすべきでない事を彼は一切やってこなかった。すべてプロ選手にとって、見習うべきお手本なのだ」とした。
 記事は、三浦に対するリスペクトのほかに、「彼はいつまで現役を続けるのか」についても関心を集めていると紹介。「彼のサッカーに対する愛情は非常に純粋だ。彼は走ることを愛しており、夢を抱き続けようとしている。走れる限りは、その足を止めることはないのだ」と伝えた。」
http://news.searchina.net/id/1627089?page=1
 <ちょい、変わった切り口で日本車礼賛。↓>
 「・・・今日頭条はこのほど、日系車は「材料をごまかし、手抜きをしている」、「安全性が低い」といったデマはどこが出処なのかと疑問を投げかける記事を掲載し、中国人ネットユーザーたちが議論を交わしている。
 寄せられたコメントを見てみると、どのユーザーもはっきりとしたデマの出処は知らず、ただ「ネットでそう言われているから」、「ネットで事故の写真を見たから」といった意見が多かった。不正確な情報を鵜呑みにしている中国人がいかに多いかが読み取れる。中国に残る反日感情と結びやすい内容であったことも、デマが拡散した理由の1つかも知れない。
 一方、こうしたデマが生まれ、拡散してしまうことを批判するコメントもあり、「日系車の故障の少なさや安全性の高さは各国の安全性能評価で証明されており、自動車業界における常識」、「中国人は自らの運転の粗さについての責任を日系車に押し付けようとしている。日系車の鋼板が薄いなどと批判する前に、中国人は信号無視や無理な割り込み、気ままな車線変更など自らの問題を直すべきだ」という意見があった。」
http://news.searchina.net/id/1627091?page=1

 これが事実なら、セウォル号事件の時雲隠れする人間が保身のためにはこんな「会議」にまで顔を出すってんだから、情けないおばさんだよ。↓

 「国政介入:「朴大統領、昨年10月に青瓦台で証拠隠滅会議を主宰」・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/01/14/2017011400419.html

 朴大統領、「親友」を信じ切ってて、公共のためだと思い込んでたんだろうが、サムスンに出金を強要したのが事実なら、情けないの2乗のおばさんだわ。↓

 「サムスン電子副会長だからと大目に見ることも、濡れ衣を着せることもあってはならない・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/01/14/2017011400392.html

 某台湾国立大学、蒋介石の銅像除去へ。
 こういう調子で、孫文も台湾から追放しようね。↓

 University to remove Chiang statues--The head of a student group said honoring Chiang Kai-shek with statues constitutes an attack on students who are descendants of White Terror victims・・・
http://www.taipeitimes.com/News/front/archives/2017/01/14/2003663060

 ガーディアンが、どうして、中共当局が、日支戦争の期間「延長」を行ったのか、くだらない説をいくつか紹介してるが、日本の主要メディアは、そもそも、理由を詮索しようとすらしてないね。困ったもんだ。↓
 China rewrites history books to extend Sino-Japanese war by six years・・・
 <ところで、日支戦争を以下のように描写している英国人(?)学者の説を紹介してるが、無茶苦茶だよ。もう英国もダメだな。(太田)↓>
 The invasion of Manchuria was brutal colonialism, but the Sino-Japanese war from 1937 was a semi-genocidal war, comparable only to Hitler’s invasion of the Soviet Union・・・
https://www.theguardian.com/books/2017/jan/13/china-rewrites-history-books-to-extend-sino-japanese-war-by-six-years
-------------------------------------------------------------------------------

 一人題名のない音楽会です。
 レクイエムの4回目です。
 モーツアルトのと同様、ヴェルディのも既出(コラム#3977)なので、飛ばして次へ行きます。

Antonin Dvořak - Requiem(1890年) 指揮:Mariss Jansons オケ:Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks ソプラノ:Krassimira Stoyanova メゾソプラノ:Elīna Garanča テノール:Stuart Skelton バス:Robert Holl
https://www.youtube.com/watch?v=aPxHEN9lXCU

(注)「1891年10月<の>・・・イギリスのバーミンガム音楽祭のための新作依頼に応えて作曲された・・・「ドヴォルザークの全作品中最も哲学的な作品」と<いう>評<がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A0_(%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF)

(続く)
-------------------------------------------------------------------------------

         対露百年戦争勝利を記念して(その3)
           --戦間期の日露冷戦(補遺)--

1 序

 構成は、以下、次の通りです。
 
 2 青年毛沢東
 3 毛沢東と中共軍・長征・党軍
 4 ポスト毛沢東--トウ小平の苦渋

 3については、このところのディスカッション上での議論(コラム#8836、8838、8840、8842、8844、8846、8848)に、あらかじめ目を通しておいてください。

2 青年毛沢東

 (1)始めに

 中共が、毛沢東時代が始まって以来、日本的な社会を支那で樹立することを目指しており、毛の最晩年からは日本文明総体継受に努めて現在に至っている、という「事実」・・中共当局がその「事実」を認めることは、まだ、当分の間、種々の思惑からありえませんが・・に気付き、発信している人が、いつまで経っても世界中で私だけに留まっていることが、私は不思議でなりません。
 日本に関しては、吉田ドクトリンの下で人文社会科学が全般的に不振を極めているから、という説明ができそうですが、欧米に関しては首をひねり続けてきました。
 で、例によって、思い切った仮説を立てることにしました。
 私は、このところ、毛沢東が青年時代から日本大好き人間であった、と遠藤誉のおばちゃまによる発信や日本語ウイキペディアの記述等を踏まえて申し上げてきているところ、昨年11月末に、いや、そうではなく、毛沢東は最初のうちは実は米国大好き人間だった、と主張するファイナンシャルタイムス掲載コラムの下掲のくだりを読んで怪訝な気持ちにさせられたのです。

 「毛沢東は、青年時代にジョージ・ワシントン(George Washington)とセオドア・ローズベルト(Theodore Roosevelt)を尊敬しており、毛は、<当時、>諸帝国を敵視したウッドロー・ウィルソン(Woodrow Wilson)を長としていた「米国に彼の諸希望を」託していて、米国は、日本による支那の主権に対する諸脅威から支那を守ってくれるだろうと思っていた・・・。
 <ところが、>ウィルソンが、ドイツが保有していたところの山東半島(Shandong)の諸部分に対するコントロール権を日本に与えた、ヴェルサイユ条約を擁護(back)した時、毛沢東は米国を含む欧米諸大国に嘲笑を浴びせ、これら諸国を、「冷笑的にも民族自決擁護者たることを標榜した」ところの「泥棒達の一団」と呼ぶに至った。」
https://www.ft.com/content/94b9616a-afd5-11e6-9c37-5787335499a0
(11月27日アクセス)

 つまり、毛沢東は、もともとは米国大好き人間だったのだけれど、やがて、米国を含む欧米諸国が嫌いになってしまった、というのですからね。
 私の主張は、毛沢東は、一貫して、日本大好き人間であった、というものですが、欧米諸国が嫌いになってからは日本が好きになった可能性を排除しているわけではないのだから、そんなのわずかの違いではないか、決定的に違うのは毛沢東の青年時代の初期についてだけではないか、と言われればそうかもしれませんが・・。
 でも、念のために、と毛沢東の英語ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Mao_Zedong
の彼の青年時代の記述を、改めてじっくり読んでみました。
 そうしたら、目を剥きましたねえ。
 日本語ウィキペディアとは大違いで、毛沢東が日本大好き人間であったことを直接うかがわせるような記述が、一切出てこなかったからです。
 毛沢東について関心のある英語圏の人ならばこの英語ウィキペディアを参照する可能性は極めて高いでしょうから、彼らの中から、毛沢東は日本大好き人間だ、或いは、大好き人間かもしれない、といった着意を抱いた者が出てこないのはそのためではないか、と私は思ったのです。
 そして、更に、そのような記述になっているのは、中共当局による、その息のかかった書き手達を操った工作のせいなのではないか、とさえ勘繰り始めたのです。
 (そんな工作は、毛沢東に関する日本語ウィキペディアに対しては行う必要がないことはお分かりですよね。
 もちろん、毛に関する英語ウィキペディアに登場する人や出来事を更にそれぞれの英語ウィキペディアで調べた時に、日本大好き人間であったことを伺わせる記述が出て来ては頭かくして尻隠さずみたいな話ですから、そういったところにまで、中共当局が手を伸ばしている可能性が大ですが、到底、そんなことまで確認する時間がなかったので検証していません。)
 そこで、この英語ウィキペディアの、毛沢東の青年時代の部分をほぼ全文邦訳した上で、コメントを付けてみよう、という気になったのです。
 その狙いは、そのような隠蔽をかいくぐって、毛沢東が、その青年時代初期から一貫して日本大好き人間であったこと、を炙り出すことだったのですが、毛は日本で育った、と言ってよいくらいの印象を私は持ちました。
 皆さんの感想をお寄せください。 

 (2)英語ウィキペディアを通じて見た毛沢東の青年時代

-------------------------------------------------------------------------------
[毛沢東の父母]

父:毛貽昌(Mao Yichang。1870〜1920年)--一代で村一番の20エーカーの土地を所有する豪農になった。厳しい父親であり、毛沢東や弟達をしばしば殴った、とされる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Mao_Yichang

母:文素勤(Wen Qimei。1867〜1919年)--それまでに2人の男児を生まれてすぐ失っていたので、毛が生まれると、山奥に住んでいる仏僧(尼)に預けようとしたが、毛が健康そうなので断られ、今度は、観音菩薩を祭る寺に行き、菩薩に毛の養親になってくれるよう祈った、とされる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Wen_Qimei

⇒以上のような話を伝えたのは毛自身であった可能性が大だが、毛は間違いなくお母さんっ子だっただろうし、後述するように、毛は勉強家だったから、仏教についてもそれなりの興味をもって勉強し、釈迦の言う悟りの本質も掴んでいた可能性すら排除できないのではないか。
 毛の、日本人仏僧の月性への関心(コラム#7989)を思い出して欲しい。
 もちろん、父親の存在も毛にとって不可欠だった。
 毛の勉強を支えるだけの資金力があった、という意味で・・。(太田)
-------------------------------------------------------------------------------

 「父親の農場で働いている間、毛は貪欲に読書をし、鄭観応(Zheng Guanying<。1842〜1922年>)<(注1)>の小冊子・・支那の力の衰えを嘆き代表民主制の採用を主張している・・から、政治意識を養った。

 (注1)ていかんおう(1842〜1922年)。「童試<(科挙の予備試験)>を受けるが失敗し、・・・1860年、イギリス資本の<上海の>デント商会で働き、英語を学んで<欧米>の政治と経済について理解を深めた。1874年、スワイヤー・グループが太古輪船公司を設立するのに関わった。1880年に『易言』を著し、西洋から商業を学び、立憲君主制を採用するように提言した。同年、直隷総督李鴻章から上海機器職布局と上海電報局の総裁に任命される。1883年には輪船招商局の総裁に昇進したが、翌年に辞任した。辞任後はマカオに閑居して『易言』の改訂に専念し、その成果は後に『盛世危言』としてまとめられている。1891年に開平煤砿局総裁に起用され、翌年には再び輪船招商局総裁となった。中華民国成立後は、教育事業に力を注いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E8%A6%B3%E5%BF%9C
 「洋務運動<の一環として、18>94年・・・に・・・盛宣懐が上海華盛機器紡織総廠,張之洞が湖北紡紗局をそれぞれ設立し<た。>・・・
 輪船招商局<は、>・・・<やはり>洋務運動<の一環として、>1874年・・・北洋大臣兼直隷総督李鴻章<が>,<英米>の航運会社に対抗するため,民間から資本を募集(招商)し半官半民(官商合辧)の輪船公司招商局を設立した。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BC%AA%E8%88%B9%E6%8B%9B%E5%95%86%E5%B1%80-1437930

⇒「洋務運動は、中国の清朝末期(1860年代前半〜1890年代前半)、<欧米>近代文明の科学技術を導入して清朝の国力増強を目指した運動」で、「1880年代半ば以降は恭親王奕訢らの勢力が守旧派に圧倒され改革の勢い<が>衰えた」わけですが、「明治維新は封建制を否定して西欧の立憲君主制と同様の政治体制を目指したのに対し、洋務運動は清朝を頂点とした儒教に基づいた政治体制をそのまま維持しようとした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%8B%E5%8B%99%E9%81%8B%E5%8B%95
中で、鄭観応は、洋務運動関係者中、例外的に、明治維新型の改革を提言したと解されるところ、毛沢東自身も明治維新に強い関心を持っていた(コラム#7989)からこそ、鄭観応に着目した、と見ることができそうです。(太田)

 歴史に興味を持った毛は、ジョージ・ワシントン(George Washington)とナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)の軍事的卓越(prowess)とナショナリスト的熱情に鼓吹された。
 彼の政治的諸見解は、湖南省の(Hunanese)首都の長沙(Changsha)の飢饉に引き続いて勃発したところの、哥老会(Gelaohui)<(注2)>が率いた諸抗議によって形作られた。

⇒毛は、ワシントンについては、彼が体現していた米独立革命の「思想」ではなく、単にその軍事指導者としての能力・・今では無能であったことが分かっています(コラム#省略)が、当時はそうではありませんでした・・に、若者らしく憧れた、というだけのようですね。
 (冒頭で引用した新聞コラムに登場したセオドア・ローズベルトについても、米西戦争の際の彼の活躍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AA%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
に憧れたものでしょう。
 ウィルソンについては、典拠が不明なので判断を留保しておきます。)
 ナポレオンについては、西郷隆盛が敬愛していた(コラム#7301)ことを毛は知っていたのかもしれません。
 とまれ、毛が生まれたのは1893年の12月ですから、日露戦争(1904年2月〜05年9月)の頃には、11歳になっており、既に分別のつきかけた頃であったことはともかく、少なくともその後の青年時代に、この、日本が欧米列強の一つに勝利したという画期的な事件に彼が瞠目しなかったはずがないのですが、英語ウィキペディアの中で全くこの戦争への言及がないのは極めて不自然ではないでしょうか。(太田)

 (注2)かろうかい。「白蓮教や天地会などの影響を受けながら、清代18世紀に四川省で生まれた。農民の互助自衛組織として発展、湖南省・湖北省を中心に長江流域に広がり、反清復明(はんしんふくみん)を掲げて活動した。主に農村を基盤として、流民や無産者を組織し、地主など地方有力者や知識人を指導者とした。清代末期には孫文ら革命派と結び、1911年に始まる辛亥革命に重要な役割を果たしたが、中華民国成立後は反革命的な性格を強めていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%A5%E8%80%81%E4%BC%9A

 毛はこの抗議者達を支援したが、軍隊が、この異議申立者達を弾圧し、彼らの指導者達を処刑した。
 この飢饉は<毛の故郷の>韶山(Shaoshan)にまで及び、そこでは、飢えた農民達が彼の父親の穀物を奪取した。
 彼は、彼らの諸行動は道徳的には間違っているとしつつも、彼らの境遇には同情を表明した。
 [1910年秋、]16歳の時に、毛は近傍の東山(Dongshan)の高等小学校に移ったが、彼が農民出身だったのでいじめを受けた。
 1911年に、毛は長沙の中学校に入った。
 この都市では革命感情が強く、<清朝最後の皇帝の>溥儀(Puyi)の絶対君主制に対する広範な敵意があり、多くの人々が共和制を擁護していた。
 共和主義者達の名目上の長は孫文(Sun Yat-sen)だった。
 彼は、米国で教育を受けたキリスト教徒であり、中国同盟会(Tongmenghui society)<(注3)>の指導者だった。

 (注3)「1905年に<欧州>から帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。・・・同年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。ここで東京に留学中の蒋介石と出会う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87

⇒孫文に関しても、全くその日本との関わりに触れていないのは不自然です。
 なお、孫文が、日露戦争での日本の勝利に触発され、日本で中国同盟会を結成したことを、毛も当然知っていたはずです。(太田)。

 長沙では、毛は孫文の新聞・・・に影響を受け、孫文に総統になって欲しい、と学校での作文に書いた。
 満州族の君主に対する叛乱の象徴として、・・・毛とその友人達は彼らの辮髪群を切り落とした。
 孫文の共和主義に鼓吹され、軍が支那南部全域で崛起し、辛亥(Xinhai)革命が引き起こされた。
 長沙の市長は逃亡し、この都市は共和派のコントロール下に入った。
 革命を支持していた毛は、反乱軍に一兵卒として加わったが、戦闘には巻き込まれなかった。
 <他方、>北部諸省は皇帝に忠実であり続けたので、内戦を避けようと、彼の支持者達から「臨時総統」と宣言されていたところの孫文は、君主主義者たる袁世凱(Yuan Shikai)将軍と妥協した。
 <すなわち、>君主制は廃止され中華民国が創設されるが、君主主義者の袁世凱が総統になることになったのだ。
 <こうして、>革命が終わったので、6か月間兵士であった毛は1912年に軍を辞めた。

⇒毛が一兵卒として反乱軍に加わったことには、彼が、明治維新を実現した日本の武士に憧れ、武士のような人間になりたかったからだ、と解したらどうでしょうか。(太田)

 この頃、毛はある新聞記事から社会主義を発見し、学生の時に中国社会党(Chinese Socialist Party)を創立した、江亢虎(Jiang Kanghu<。1883〜1954年>)<(注4)>のパンフレット群を読むようになったが、毛は、関心を抱き続けたものの、<社会主義>の観念にはまだ納得していなかった。

 (注4)こうこうこ(1883〜1954年)。「1901年・・・に日本に留学する。以降1903年・・・1907年・・・と日本留学を果たし、その過程で社会主義者やアナキストと交わり社会主義思想に傾倒した。1909年・・・、ブリュッセルで開催された第二インターナショナル大会に参加する。1910年・・・から翌年にかけて欧州各国を訪問した後に、上海で社会主義研究会を組織し、1911年・・・11月に社会主義研究会を改組して中国社会党を結成した。結党当初の社会党綱領にはアナキズムの影響も見られたが、翌年には早くも改良主義的傾向を明確化する。このため、沙淦らアナキスト系が党外へと去った。・・・
 後年になると伝統思想に傾倒し、保守派と目されるようになる。汪兆銘政権が成立すると、その要人となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E4%BA%A2%E8%99%8E
 第二インターナショナルは、1889年にマルクス主義者達が中心となって作った社会主義者達の国際組織。やがて、議会主義に傾斜するとともに、アナキスト達は排除されていった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB

-------------------------------------------------------------------------------
[日本のマルクス主義の黎明期を担った人々]

 日本における共産主義の黎明期の巨人と言えば、堺利彦、幸徳秋水、山川均、大杉栄、荒畑寒村、の5人だろうが、先回りして言えば、思想史的には、毛沢東(1893〜1976年)の共産主義は、間接的に、彼らの共産主義を継受したものである、と私は見るに至っている。

 堺利彦(1871〜1933年):「週刊『平民新聞』第53号(1904年11月13日)に幸徳との共訳で『共産党宣言』を翻訳して掲載した。これは、サミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳であったが、日本における最初の『共産党宣言』の翻訳であった。

⇒毛沢東の読んだ『共産党宣言』は、恐らく、この堺・幸徳版の漢語訳であろう、と私はかねてから見ている(コラム#省略)わけだ。(太田)

 ・・・1906年・・・に日本社会党を結成して評議員・幹事となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍をはじめる。
 ・・・1920年・・・日本社会主義同盟が結成されるが翌年に禁止されてしまう。
 ・・・1922年・・・日本共産党(第一次共産党)の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加するものの、山川らに同調して共産党を離脱、後に労農派に与する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E5%88%A9%E5%BD%A6

⇒堺・山川・荒畑らが作った労農派なるものは、マルクス・レーニン主義ならぬ、マルクス主義(マルクス・エンゲルス主義)、とりわけ、初期マルクスの思想的なもの、に強く共鳴したグループである、というのが私の認識だ。
 ということは、当然、反マルクス・レーニン主義、つまりは、反ソ、ということになる。(太田)

 幸徳秋水(1871〜1911年):「1901年・・・『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行し帝国主義を批判。これは当時、国際的に見ても先進的なものであった。又、この年田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したときの直訴状は、まず秋水が書き、正造が手を加えたものである」「1903年・・・秋水と堺は非戦論を訴えつづける為に平民社を開業し、週刊『平民新聞』を創刊した。」「1905年・・・新聞紙条例で入獄、獄中でクロポトキンを知り、無政府主義に傾く。出獄後11月、渡米、サンフランシスコに着く。<米国>に亡命していたロシア人アナキスト<達>・・・と交わり、アナルコ・サンディカリズムの影響を受けた。翌1906年<帰国した>・・・秋水はゼネラル・ストライキによる「直接行動論」を提唱。1906年・・・1月に・・・結党が認められた日本社会党において「国法ノ範囲内ニ於テ社会主義ヲ主張ス」という合法主義を掲げていたため、秋水の掲げた実力行使に対し、党内は大きく揺れることになり、労働者による普通選挙運動を主張する片山潜や田添鉄二らの「議会政策論」と対立し袂を分けることになった。」「1910年・・・6月、幸徳事件(大逆事件)において逮捕・・・<翌年>処刑された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E5%BE%B3%E7%A7%8B%E6%B0%B4

⇒幸徳の事績から読み取れるのは、反帝国主義、反環境汚染、非戦、アナキズムへのシンパシー、反民主主義、であり、何と言うことはない、これらは、彼が、日本文明のアングロサクソン文明に対する優位性を信じるに至り、明治維新以来の、第二次弥生モード、すなわち、アングロサクソン文明総体継受的な路線に対する嫌悪、に由来するところの、第二次縄文モードであった江戸時代的なもの、すなわち、プロト日本型政治経済体制的なもの、への回帰希求、を表明したものである、と、私は解している。
 (私が、どうして江戸時代の日本をアナキズム的社会と見ているかは、ここで繰り返さない。(コラム#省略))(太田)

 山川均(1880〜1958年):「1906年・・・に堺利彦らの日本社会党に入党、日刊『平民新聞』にも参加し、社会主義運動に加わった。」「1922年・・・年7月15日には日本共産党(第一次共産党)が創立(治安警察法違反のため非合法)されると、総務幹事となる。日本共産党は、同年11月のコミンテルン第4回大会に代表を派遣して、コミンテルン日本支部として正式に承認される。
 山川は「無産階級運動の方向転換」(『前衛』1922年7・8月合併号)などを発表、大衆運動との結びつきを重視する「方向転換論」(山川イズム)を提唱した。しかしまもなく解党論の中心となり、1924年・・・に共産党はいったん解散する。その後・・・共産党が再建(第二次共産党)されたが、これに距離を置き参加しなかった山川は「日和見主義者」「解党主義者」として共産党主流派から厳しい批判を受けるようになった。これに対し山川は堺、荒畑寒村、猪俣津南雄らと1927年・・・に『労農』を創刊し、共同戦線党論を展開する。」「<戦>後は社会党左派の理論家として活動し、1951年・・・に社会主義協会が発足した際には大内兵衛と共に代表を務めた。山川は向坂逸郎らと共に社会主義協会において非武装中立論を説き、この理論は日本社会党に強い影響を与えた。しかし山川の非武装中立論は、永世非武装国家を志向したものではなかった。山川は日本が復興する間のみの非武装(復興時非武装中立論)を説いただけで、ソ連の脅威を十分に認識した上での将来的な武装を認めていた。しかし向坂ら親ソ派はソ連・社会主義陣営に与する立場から、ソ連の脅威に目をつぶり、非武装中立論を日本が社会主義陣営に立つまでの手段であると解釈を変更した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E5%9D%87

⇒日本共産党がマルクス・レーニン主義党としてソ連共産党のイデオロギー的統制・・ソ連は、そもそも、日本は非近代国家であるというトンデモ認識を持っていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/27%E5%B9%B4%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%BC
・・下に完全に入ると、山川は日本共産党とたもとを分かつところ、恐らく、彼も幸徳と同じような考えを抱いていた、と思われる。(太田)

 大杉栄(1885〜1923年):「谷中村の鉱毒事件への追及運動に・・・触発され」「非戦論に共鳴し」「 獄中で・・・アナキズムの本<を>多読。」「1920年・・・夏、コミンテルンから「密使」の訪問があり、10月、密かに日本を脱出、上海で開かれた社会主義者の集まりに参加。・・・1921年・・・1月、コミンテルンからの資金でアナ・ボル(アナキスト・ボルシェヴィキ)共同の機関紙としての『労働運動』(第二次)を刊行。しかし・・・6月、ボルの井伊らの裏切りもあり共同路線が破綻し『労働運動』紙は13号で廃刊。12月にはアナキストだけで『労働運動』(第三次)を復刊させる。」「<1922年>12月、翌年にベルリンで開かれる予定の国際アナキスト大会に参加のため再び日本を脱出する。」「関東大震災<の時>・・・柏木の自宅近くから伊藤野枝、甥の6歳の橘宗一と共に憲兵に連行され殺害された。」「1923年12月17日の衆議院予算委員会で後藤が第2次山本内閣内務大臣として行った答弁によれば、後藤は寺内内閣内務大臣として大杉に2回にわたって計500円を渡しており、大杉への資金提供は「歴代ノ内務大臣ガヤッテ居ッタコトテアル」と述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%89%E6%A0%84

⇒大杉は、この5人中、最も早い時点でマルクス・レーニン主義から離れた人物であるところ、彼の考えは、反環境汚染、非戦、といったことから、幸徳とほぼ同じであったと推測され、そのアナキズムへの傾斜は、やはり、アングロサクソン文明からの過剰継受への嫌悪と江戸時代的なものへの回帰希求、がもたらしたものであると考える。
 政府による大杉への資金提供は、もとより、広義のマルクス主義者達の分断を図るためであったろうが、アングロサクソン文明からの過剰継受への疑問が、当時、政府関係者の間でも相当程度共有されていた可能性を推認させる。(太田)

 荒畑寒村(1887〜1981年):「寒村は出獄後、1912年に大杉栄と『近代思想』を創刊、さらに月刊『平民新聞』を発行するが、サンディカリズムを唱えた大杉とマルクス主義に立脚する寒村との対立が次第に表面化。大杉と訣別して後は労働組合活動を続けながら、関西で活動。1920年に日本社会主義同盟・1922年に日本共産党(第一次共産党)の創立にそれぞれ参加する。しかし1923年の第一次共産党事件で堺利彦とともに検挙され、翌1924年には、寒村によるほぼ唯一の反対論を押し切って共産党解散決議がなされてしまう。・・・その後共産党は・・・再建(第二次共産党)されるが・・・<荒畑は>参加しなかった。そして山川均・猪俣津南雄らと1927年に『労農』を創刊、労農派の中心メンバーとして非共産党マルクス主義の理論づけを行った。」「戦後は・・・日本社会党の結成に参加。1946年以降衆議院議員を2・・・務めた後、1949年1月総選挙では社会主義政党結成促進協議会(いわゆる山川新党)を母体に無所属で立候補したが落選<し、>以後は評論活動に専念」「60年代後半以降には、ソ連派傾向を鮮明にした向坂逸郎・社会主義協会を強く批判した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E7%95%91%E5%AF%92%E6%9D%91

⇒荒畑が、文中に出てくる「非共産党マルクス主義(=非マルクス・レーニン主義、たる、マルクス主義=マルクス・エンゲルス主義)」者であったとするならば、大杉は「初期マルクス主義」者であった、ということであり、両者の違いは、それほど大きなものではない。(太田)
-------------------------------------------------------------------------------

⇒毛は、鄭観応を通じて、アングロサクソン文明継受の必要性を理解した後、日本がこの文明の継受を目指し、それに「成功」したところの、明治維新に相当するものを支那でも起こさなければならない、というところから、その思想遍歴を開始したが、やがて、明治維新の担い手であった武士に相当するものを支那でも作らなければならないことに思い至り、更に、江亢虎を通じて、その日本の大衆が人間主義的であって、大衆の多くが阿Q的である支那とは大きく異なっていること、かつ、その日本で、明治維新後の過度のアングロサクソン文明継受に反発し、江戸時代への回帰を目指す機運が出てきていることを知り、人間主義的な大衆と、(人間主義的だが戦士でもある)武士、の双方を欠く支那で、どうしたら大衆を人間主義的にすることができるか、どうしたら武士に相当するものを作り出せすことができるか、かつまた、アングロサクソン文明の適度な継受とはいかなるものでどうやったら支那でその適度な継受をすることができるのか、という複雑にからみあった諸課題の解決方法を模索し始めた、というのが私の最新の見方です。
 そして、結果的に、毛は、後に中国共産党に創設メンバーとして加わり、それを乗っ取った上で、同党を武士集団的なものに作り替え、次いで同党によって支那の権力を奪取し、奪取後、アングロサクソン文明の適度な継受を行いつつ、大衆の人間主義化も図ることになった、と見たいのです。(太田)

 その後の数年、毛は、警察学校、石鹸製造学校、法律学校、経済学校、そして、官立長沙中学、に入学したりドロップアウトしたりした。

⇒この頃の毛がいかに煩悶し思想遍歴を続けていたかが想像される、というものです。(太田)

 一人で勉強するため、彼は、多くの時間を長沙の図書館で過ごし、アダム・スミスの『国富論』、モンテスキューの『法の精神』、そして、ダーウィン、ミル、ルソー、スペンサー、といった欧米の科学者達や哲学者達の諸著作、といった、古典的自由主義の核心的諸著作を読んだ。

⇒アングロサクソン文明の継受を目指した欧州人たるモンテスキュー、イギリス人以上にイギリス人的であったアダム・スミスを含め、ルソー以外は、全員が、アングロサクソン文明のいわば祖述者であるところからも、毛が、日本が明治維新で継受を目指したアングロサクソン文明を真に理解した上で、その適度な継受のあり方を見極めるべく努力したことが伺えます。
 なお、これらの著作の大部分は、邦訳からの重訳であったことでしょうし、そうでなかったものがあったとしても、重要な専門用語には全て日本語が使用されていたはずです。
 従って、毛がアングロサクソン文明を理解したとすれば、それは、日本人が理解したアングロサクソン文明であったはずです。(太田)

 自分自身を知識人と見ていた毛は、何年も後に、この頃は自分は働いている人々よりも偉い(better)と思っていたことを認めた。
 彼は、フリードリヒ・パウルゼン(Friedrich Paulsen)<(注5)>に鼓吹された。
 その、個人主義についての自由主義的な強調は、毛をして、強い個人達は道徳的諸規範に羈束されることなく、より大きな善のために奮闘しなければならず、かつ、帰結主義(consequentialism)<(注6)>の結論であるところの「目的は手段を正当化する」、ということを信じさせるに至った。

 (注5)1846〜1908年。ドイツの新カント派の哲学者にして教育家。
https://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Paulsen
 最終的に「ベルリーン大学哲学・教育学正教授となる。スピノーザやカント、フェヒナーの影響を受け、観念論的汎神論を形成し、目的論的活動説を倫理学の原理とする。又、学校教育の改革にも貢献し<た>」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92+%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%B3-1627927
 (注6)「行為を道徳的に判断する際に、その行為から生じる帰結(結果)を考慮に入れる立場を指す。功利主義は、帰結主義のひとつの立場である。・・・
 <但し、>帰結主義という言葉<自体>は[イギリスの哲学者の]G. E. M.アンスコム[(Gertrude Elizabeth Margaret Anscombe。1919〜2001)]が1958年の論文「近代の道徳哲学」で用いた造語である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E7%B5%90%E4%B8%BB%E7%BE%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%A0 ([]内)

⇒「一九一七年から一八年にかけての冬、いまだ学生のまま二四歳を迎えた毛沢東は、 一九世紀後半のさほど有名でないドイツ人哲学者フリードリヒ・パウルゼンの著書『倫理学大系』[(1889年)]に注釈を加えた長大な論文を書いた。」
http://ameblo.jp/b-blog006/
というのですが、恐らく、彼が読んだのは、「鴎外<が軍医としての>小倉時代〈(1899〜1902年)〉に本書の一部を「フリイドリヒ・パウルゼン氏倫理説の梗概」として抄訳し<た>」
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/B700_95.html ([]内も)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96 (〈〉内)
ものの重訳でしょう。
 ちなみに、現在の「中国の大学生は森鴎外の『舞姫』を好む」のだそうです。
http://touhougakuin.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-24b6.html
 毛は鴎外の『舞姫』等の翻訳本を読んでいて、この抄訳の存在を知った可能性が大です。
 その鴎外は、「社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差し」(鴎外のウィキ前掲)、すなわち、人間主義性、で知られる人物です。(太田)

 彼の父親は、自分の息子の知的諸探求など何の役にも立たないと見て、彼への資金提供を止め、貧窮院に送り込んだ。
 毛は教師になろうとして、湖南省では広く、最高であると見られていたところの、長沙の第四尋常学院<(第四師範学校)>・・すぐに長沙の第一尋常学院と合併することになる・・に入学した。
 <その学校で>毛が親しくなった楊昌済(Yang Changji)<(注7)>教員は、毛に、彼の友人である、北京大学学長(dean)の陳独秀(Chen Duxiu)が創刊した、急進的な新聞である「新青年(Xin qingnian)」<(注8)>を読むよう促した。

 (注7)ようしょうせい(1871〜1920年)。「中華民国の哲学家、教育家。湖南省長沙県出身。毛沢東の2番目の妻・楊開慧の父・・・年、日本の弘文学院に入学しその後東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業。1909年、アバディーン大学入学。1913年—1918年、湖南第一師範学院教員。1918年—1920年、北京大学教員。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%98%8C%E6%B8%88
 (注8)「<支那では、清末から>「儒教」からの真の解放を目指して<支那>の再生を企図した新文化運動が主流になり、その中核が文学革命であった。文学革命の舞台となったのは、1915年9月15日に上海で創刊された本雑誌『新青年』(発刊当初は『青年雑誌』であり、1916年に『新青年』に改題された)であった。・・・この『新青年』の代表的スローガンが「民主と科学」であり、執筆者達は、「民主」と「科学」を基調とする新文化の建設を訴えた。背景には、辛亥革命が「儒教」社会の構造や人間の倫理規範を何ら改変させるところなく、第一次世界大戦(1914年−1919年)に参戦中の列強による「瓜分」が深刻になってきたことに加え、袁世凱政権が日本からの「対華21ヶ条の要求」を受け入れたこと(1915年)への挫折感・屈辱感・危機感があった。『新青年』の執筆者のうち、進化論の「適者生存」に因んで改名した胡適は、留学中のアメリカから「文学改良芻議」(1917年)を寄稿し、古典に典拠を求めないことや俗字俗語の使用を避けないことなど、文章の表現形式に関する改革を訴えた。これは科挙の影響を受けた知識人が使う古典文語文の使用をやめ、庶民の用いる白話文を用いて文章を綴ろうという主張である。この胡適の影響を受け、陳独秀は正式に「文学革命」を提唱し、2000年にわたる儒教という呪縛からの個人の解放を訴えた。また魯迅は、「狂人日記」(1918年)を著して、表では礼節を説く「儒教」が裏では生命の抑圧者となったことを指摘した。さらに、1917年のロシア革命の影響を受けた李大,録諭垢魍很燭卜ちあがらせる理論としてマルクス思想を中国に最初に紹介した。
 『新青年』の主な執筆者は、魯迅、胡適、周作人(魯迅の弟)、李大,蕕遼無の知識人とりわけ北京大学の教授陣で占められた。毎号300ページ前後の堂々たる総合雑誌の体裁をとり、最盛期には1万6000部も発行して人間、内面、恋愛、貨幣経済制度など近代西欧に起源をもつ重要な概念を、一斉に中国文学に登場させた。
 その後、ロシア革命の評価とマルクス主義受容をめぐり、『新青年』内部では対立が深まっていく。陳独秀と李大,蕕魯譟璽縫鵑離椒襯轡Д咼坤爐坊垢、コミンテルン=ロシア共産党の支援を受け、1921年7月に中国共産党を結党したので、『新青年』は中共の機関誌化していった。これに対しマルクス主義に強く反対した胡適は、アメリカ・モデルによる近代化を主張し、魯迅と周作人らもボルシェビズムの専制的体質に懐疑を抱き、むしろ日本の白樺派文学者、武者小路実篤の「新しき村運動」への信頼感を表明して『新青年』から離れていった。1922年7月で休刊、事実上の解散という結末を迎えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%9D%92%E5%B9%B4_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)

⇒日本留学経験者が日本留学経験者を紹介する、というパターンです。(太田)

-------------------------------------------------------------------------------
[毛沢東と魯迅・周作人兄弟]

 --魯迅--

 「中国の「国語」教科書における特色とは何か。それは端的に言えば、魯迅の存在があまりにも大き過ぎることなのだ。・・・
 その魯迅が新中国の「国語」教科書の中で圧倒的な存在感を占めるについては、毛沢東の強力な持ち上げがあったのであり、この経緯については多くの中国人が知っている。・・・1920、30年代当時、雑文(社会、文化批評)の形式で国民党政府を痛烈に批判していた魯迅に、毛沢東は早くから注目していたようだが、生前二人が顔を合わせることはなかった。しかし毛沢東は魯迅の動向については連絡員に報告させていた。ある時、連絡員が毛沢東に「ある日本人の説によると、中国のことを理解している者は広い中国の中で二人と半人しかいない。一人は蒋介石で、後一人は魯迅、そして半人は毛沢東だということです」と報告した。これを聞いて毛沢東はアッハハと大笑し、そしてしばし考えた後、「その日本人はただものじゃないな。 彼が魯迅は中国を理解しているといったのは、その通りだ」と言ったという。「南方 人物周刊」の中で見つけたエピソードだ・・・
 1940年、確固たる根拠地を持つようになった毛沢東は「新民主主義の政治と新民主主義の文化」をテーマにした講演で、魯迅を「中国文化革命の主将」「三家」(偉大な文学家、偉大な思想家、偉大な革命家)、「五つの最」(最も認識が正確、最も勇敢、最も決然としている、最も忠実、最も熱情をもっている)と評した。」
http://www.shakaidotai.com/CCP124.html

 魯迅(1881〜1936年)は、「1902年、国費留学生として日本に留学し・・・1909年に帰国した<が、>・・・仙台医学専門学校<の>・・・解剖学の藤野厳九郎教授<が>懇切丁寧<(人間主義的に(太田))>に指導し<た>・・・学恩を終生忘れなかった。・・・彼は学業半雑誌『新青年』の1918年5月号に、小説『狂人日記』を発表した。・・・魯迅は、この小説の中で、表では礼節を説く「儒教」が裏では生命の抑圧者として「人を食」ってきたことを指摘し、「真の人間」となることを説いた・・・代表作『阿Q正伝』(1921年)では・・・国民性の中に潜む卑怯や惰弱、軽率を阿Qという形象に結晶させ<た。>・・・
 魯迅逝去のニュースは全中国へ直ちに報じられ、その日のうちに孫文未亡人である宋慶齢の参加を得て葬儀委員会の名簿が作成されている。当初は、蔡元培、宋慶齢、毛沢東、内山完造、アグネス・スメドレー、茅盾ら9名の名が挙げられ、のちに周作人が加わって総勢13名となった。・・・
 日中戦争開始直後の1937年10月、共産党中央と中国紅軍総司令部が置かれていた延安では、魯迅逝世1周年を記念する集会が開かれ、毛沢東が「魯迅の中国における価値は、わたしの考えでは、中国の第一等の聖人とみなされなければならない」と講演した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%AF%E8%BF%85

⇒支那人阿Q論、儒教排斥論、すなわち、人間主義日本フェチと見る他ない魯迅に毛が心酔していたということは、とりもなおさず、毛自身が日本フェチであったことを裏付けるものだ。(太田)

 --周作人--

 「1919年3月号『新青年』(陳独秀ら創刊)に、周作人は武者小路実篤の『新しき村の生活』などを引用して、「日本の新しき村」を紹介した。周作人の目に映った新しき村とは、トルストイの<(キリスト教的(太田))>体力労働偏重・極端な利他主義という弱点を乗り越えた、汎労働・協力的<(人間主義的(太田))>共同生活を主張し、協力と個性をともに賛美し、共同の精神と自由の精神をともに発展する、真に実行可能な理想だった。周は同年7月に新しき村の日向本部(のちに埼玉に移転)や支部に足を運び、実際の見聞と体験を綴った文章を『新青年』や北京大学出版の『新潮』に掲載し、「人の生活」を大いに称えた。その後1934年にも新しき村の東京支部を訪れているし、1920年2月には『新青年』に「新しき村北京支部啓事」も載せている。
 工読と新しき村の考えは、個々人の改造から社会の改造につなげる考えをもっていた毛澤東に受け入れられ、・・・毛澤東は早速1918年春やその後も友人と毛澤東流の新村を試みようとしたし、1919年12月1日、『湖南教育月刊』に「学生の活動」を発表している。また、1920年4月周作人を訪ねて、新しき村北京支部の活動状況について話を聞いている。・・・
 毛澤東流の新村の建設は失敗に終わったものの、1921年8月に設立した「湖南自修大学」や、文化大革命中に行った知識人の「下放」運動などは、こうして形成された「工読思想」という理想に対する追求の継続と見なすことができよう。」
http://www.marxism.org.cn/blog/u/95/archives/2009/334.html

⇒毛による新しき村の「挫折」は、「失敗」というよりも、彼が、武士に相当する存在なきまま、支那で人間主義者ないし集団を作っても、非人間主義者ないし集団の攻撃を受けたりカモにされたりして持続可能性がない、と見切りをつけた、ということだと私は想像している。(太田)

 周作人(1885〜1967年)は、「1906年・・・法政大学予科で予備教育を受け、1908年に立教大学に入学し英文学と古典ギリシャ語を学ぶ。・・・1911年に帰国し・・・1917年、北京大学の蔡元培に招かれて国史編纂処員に任命され、まもなく文科教授となり、それ以後は北京に在住する。・・・1937年、日本軍が北京に入城した後、北京大学は長沙・昆明に移転したが・・・周作人は残留した。・・・1945年に日本が降伏した後の12月に、北京の対日協力者・・・の一人として逮捕され、・・・1946年・・・11月16日に「懲役14年」の刑が確定し・・・た。1949年に中国共産党の南京解放により出獄し、人民共和国成立後は北京の旧邸において、変則的で自由な蟄居を営<んだ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E4%BD%9C%E4%BA%BA

⇒対日協力者である周作人を救い、保護したのは間違いなく毛沢東自身だろう。(太田)
-------------------------------------------------------------------------------

 支那ナショナリストではあったが、陳独秀は、支那は迷信と専制の汚染を除染するために欧米を見据えなければならない、と主張した。
 毛沢東は、最初の論考を1917年4月に「新青年」で上梓し、革命に奉仕するために自分達の肉体的な力を増進するように諭した。

⇒『新青年』を持ち出し、同誌に毛が処女論考を上梓したことまで記していながら、『新青年』の同人達が、やがて、ソ連派、アングロサクソン派、日本派に分かれて行ったこと、そして、毛が明らかに日本派に属していたこと、とりわけ、毛の新しき村思想及び実践との関わりについて、に英語ウィキペディアは全く言及していない、という徹底ぶりです。
 いずれにせよ、毛は、1919年までに、明確に人間主義者になったのであり、その後の毛の生涯は、死ぬまで、支那で人間主義社会を実現するための試行錯誤的実践で貫かれた、と見てよさそうです。
 なお、毛が「青年」達に肉体の鍛錬を呼び掛けたのは、それが武士的な者にとって最もベーシックかつ必須の嗜みだからでしょうね。(太田)

 彼は、哲学者の王夫之(Wang Fuzhi)<(注9)>に倣いたい、と長沙の知識階級によって創立された王夫之学<(?)>社(Chuan-shan Hsueh-she=Society for the Study of Wang Fuzhi)に参加した。

 (注9)おうふうし(1619〜92年)。「明王朝が民衆反乱と夷狄(清)侵攻によって滅んだことから、強い華夷思想と身分秩序の確立の必要性を表し、陽明学――特に李贄の思想を激しく批判した。その一方で尚古主義を批判して、中華民族を復興して新しい政治を確立する必要を唱えた。そのために強力過ぎる皇帝権力を抑えて郡県制を軸とした分権制度を確立し、豪農の土地兼併や商人の営利活動を規制して、中小の自営農民を保護する体制確立を求めた。その思想は清末の反清民族活動にも影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%A4%AB%E4%B9%8B

⇒毛の王夫之への関心は、漢人王朝たる宋や明が非漢人たる遊牧民勢力によって滅ぼされたようなことを回避するためには、支那でも日本の武士達のような人々を確保しなければならないが、そのためにはどうしたらよいのか、を彼が思案し続けていたからだ、と思うのです。
 そして、以下の記述も併せ考えると、毛は、支那の農民の心身を試練を与えることによって鍛え、彼らからなる精強な軍事集団を作ろう、という考えに至ったのではないでしょうか。(太田)

 この学校での最初の年に、毛は、年長の学生の蕭子升(Xiao Zisheng)<(注10)>と親しくなった。

 (注10)しょうししょう(1894〜1976年)。「中華民国の学者、教育者。・・・1918年4月、毛沢東・何叔衡・蔡和森らと新民学会を設立した、総幹事に就任した。1919年、フランスに赴き、勉学に勤しんだ。1924年、<支那>に帰国し、国民党北平市党務指導委員委員、『民報』総編輯、中法大学教授、国立北京大学委員兼農学院院長、華北大学学長及国民政府農砿部次長、国立歴史博物館館長等等を歴任する。1949年、台湾に赴き、後、フランス、スイスに住む。1952年、ウルグアイに移住」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E5%AD%90%E5%8D%87

 そして、二人で、食料を得るために物乞いをしつつ、文学的2行連句(couplet)群を書きながらの、湖南の歩行旅行に出かけた。
 人気のある学生だったので、1915年に、毛は学生会(Students Society)の書記に選出された。
 彼は、学生自治会(Association for Student Self-Government)を組織し、学校の諸規則に反対する諸抗議運動を率いた。
 1917年の春、彼は、この学校を略奪しに来る兵士達から防衛するための学生達の志願制軍隊の司令官に選出された。
 次第に戦争の諸技術に興味を抱くようになり、彼は、第一次世界大戦に強い関心を持ち、かつまた、勤労者達(workers)と連帯意識を醸成し始めた。

⇒毛が次第に本格的な武士らしくなっていったことが分かります。(太田)

 毛は、持久力の妙技を蕭子升と蔡和森(Cai Hesen)<(注11)>と共に修得しようとした。

 (注11)さいわしん(1895〜1931年)。「1919年12月25日に・・・フランスに赴き、同国で勉学に勤しんだ。・・・
 1921年2月フランスパリにおいて留学中国人等らによって共産主義を掲げる中国少年共産党(略称、「少共」)が創設され、蔡はこれに加入した。1921年10月に蔡は帰国し、上海で中国共産党に加入した。・・・1925年・・・2月には<ソ連>に赴き、モスクワ中山大学に学んだ。1927年の春にソ連から帰国した。中国共産党第五回全国代表大会において中央政治局委員、常任委員に当選し、中国共産党中央秘書長を兼任する。また、・・・1928年6月にはソビエト連邦で開催された中国共産党第六回全国代表大会<に>出席<し、>中国共産党中央政治局委員、常任委員・・・に就任した。1931年の年初にソ連から帰国し<たが、>・・・同年6月、英領香港の当局に逮捕され、広州で国民政府側に引渡され<、>8月・・・殺害されその一生を終えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A1%E5%92%8C%E6%A3%AE

 そして、他の若い革命家達も加え、彼らは、陳独秀の諸観念を議論するために、新民学会(Renovation of the People Study Society)<(注12)>を作った。

 (注12)「当初の新民学会というのは学生の互助や向上を目指すための団体であり、学術の向上や品行を磨くなどといった事柄が理念とされていた。だが1919年の五四運動でマルクス主義が学生を指導するようになったのを機に、多くの会員もマルクス主義に傾倒していくようになり、新民学会の理念もマルクス主義を基としたものに変更されることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B0%91%E5%AD%A6%E4%BC%9A
 「五四運動(ごしうんどう)は、1919年パリ講和会議のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した、・・・北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる大衆運動。5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ・・・る。 抗日・反帝国主義だけではなく反封建主義の側面もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%9B%9B%E9%81%8B%E5%8B%95

⇒ここのくだりは、毛がソ連派に「転向」した、ということではなく、日本大好き人間であった毛は、陳独秀が日本から持ち帰った共産主義(マルクス・エンゲルス主義)の核心部が人間主義の回復/実現願望であることを的確に理解するとともに、この主義が提唱した、そのための前衛党に類したものを作ることが、武士集団的なものが存在しない支那では不可欠であることに気付いた、というだけのことであって、ロシア革命で権力を奪取したボルシェヴィキのマルクス・レーニン主義が、ロシアのタタールの軛症候群の無花果の葉っぱに過ぎない、エセ・マルクス主義、であることを毛なら容易に見抜き、彼は、最初から一貫して反ソであり続けた、と私は見るに至っています。(太田)

 個人と社会の変革(transformation)を希求するこの学会は、70〜80人の会員達を得たが、彼らの多くは、後に中国共産党に入党した。
 毛は、3位の成績で1919年6月に卒業した。
 毛は、彼の助言者である楊昌済が北京大学で職を得たことから、北京に移った。
 楊は、毛が、傑出して「頭が良く男前である」と思っており、この大学の司書で初期の中国共産党員たる李大 Li Dazhao)<(コラム#4980、5573、7250、7572、7820、8115)>の助手の職を彼に確保した。

⇒ここでも、日本留学経験者が日本留学経験者を紹介する、というパターンです。(太田)

 李は、「新青年」にロシアの十月革命・・その間、ウラディミール・レーニン率いる共産主義ボルシェヴィキ党が権力を奪取した・・についての一連の記事群を書いた。
 レーニンは、ドイツの社会学者達たるカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスによって最初に発展させられたところの、マルクス主義の社会・政治理論の擁護者であり、李の諸記事は、支那の革命運動にマルクス主義についての理解を導入した。
 どんどん過激になりつつあった毛は、ピョートル・クロポトキン(Peter Kropotkin)<(注13)>の無政府主義の影響を受けていたが、李の研究グループに加わり、1919年の冬の間に急速にマルクス主義に接近していった(debveloped)。

 (注13)ロシアの名門貴族の家に生まれ、1874年に投獄されると脱獄し、西欧に亡命する。「二月革命を経てクロポトキンはロシアに戻り、臨時政府から文部大臣就任を打診されるもこれを拒否。ボリシェ<ヴィ>キによって十月革命が起きた際にはこれで革命が葬られたと言い、これを批判。ボリシェ<ヴィ>キ流の民主集中制・集権的革命とは違う分権的・反権威主義的革命・・相互扶助を中心概念に据えた無政府共産主義<革命>・・を主張し、<十月>革命が結果的に資本主義の復活へと繋がることを予見し・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%B3

-------------------------------------------------------------------------------
[マルクス対バクーニンとアナ・ボル論争]

--マルクス対バクーニン--

 「<ロシア人アナキストたる>バクーニンは1844年にマルクスと出会って以来、「マルクスがエンゲルスと共に第一インターナショナルに最大の貢献をしたことは疑いない。彼は聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツィーニ等はその生徒と呼んでいい程である」とその能力を認めつつも、「マルクスは、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。社会主義や共産主義の法王だと自ら考えており、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」と彼の気質に対しては反感に近い感情を抱いており、その評価は後年も変わらなかった。
 だがバクーニンは経済学者としてのマルクスを評価し、『資本論』のロシア語訳に取り掛かった。一方マルクスは1848年のドレスデン蜂起について「ロシアからの避難民の中ではミハイル・バクーニンが有望で有能な指導者とみなされていた」と記している。マルクスはまたエンゲルスへの手紙でシベリアから戻ったバクーニンと1864年に再会したことに触れ「16年を経て老い衰えた様子もなく、なおも成長を遂げたようにさえ思われた。彼のような人物は稀有である」と書いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3

⇒どちらも人間主義社会への回帰を目指していたという共通点はあったからこそ、マルクスとバクーニンは互いに尊敬しあっていたと私は解しているが、2人は主義的には激しく対立し、主義としてはマルクス(マルクス・エンゲルス)側が勝利を収めることになる。
 これは、非人間社会のただ中で、人間主義者ないし人間主義社会を守り、かかる社会を増やしていく方法論をアナキストたるバクーニンは提示できなかったはずだから、当然のことだろう。(太田)

 --アナ・ボル論争--

 「大正年間、とりわけ1920年代初めの日本の社会主義運動や社会運動において、アナルコサンディカリスム派 (アナ派、無政府組合主義)とボルシェビズム派 (ボル派、マルクス主義、共産主義)の間で起こった思想的・運動論的論争と対立・・・
 労働組合運動の組織論について、アナ派は自由連合論をとり政党の指導を排除すべきと主張したのに対し、ボル派は中央集権的組織論をとった。1917年のロシア十月革命や1922年12月30日のソビエト連邦樹立に対する評価にも相違があった。
 近藤栄蔵らが「アナ・ボル提携」を掲げ、1921年1月に大杉栄とともに『労働運動』(第2次)を創刊して蜜月に入る<も、その後、>・・・アナボル論争も激化し、同年9月30日の日本労働組合総連合結成大会に至る過程で両者の対立が頂点に達し・・・、<やがて>アナ派は衰退し、マルクス主義が主流となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E8%AB%96%E4%BA%89

⇒日本は既に人間主義社会であり、かつ、それを政府が外敵から守っていたから、日本ではアナキストがマルクス主義者に空想的であると言われる所以がなかった上、欧米等においてとは異なり、日本では両者は日本でのアングロサクソン文明の過剰継受の是正という特異な問題意識を共有していたのであって、大杉のように一人で両者を「兼ねる」ことも当然ありえたし、いわんや両者が提携的関係にあったことなど少しも不思議ではない。
 それだけではない。
 日本では「アナ派は衰退し」ていった、と一般に言われているが、(前述したように、)マルクス主義中の労農派という形で戦後に至ってまで影響力を保持し続けたと言えるし、「マルクス主義」自体も、共産党外で、いわゆる新官僚達の中に浸透し、政府による日本型政治経済体制の構築(江戸時代のプロト日本型政治経済体制の部分的アングロサクソン文明継受による再生バージョン)において大きな役割を果たすことになったのだ。(太田)
-------------------------------------------------------------------------------

⇒毛沢東が特段「どんどん過激になりつつあった」わけではないことは、もはや、よくお分かりのことと思います。(太田)
  
 低賃金だった毛は、湖南省出身の学生達たる他の7人と狭い部屋で暮らしていたが、北京の美しさが「鮮明にして生きた補償」を提供していると信じていた。
 大学では、毛は、その湖南の田舎訛りの漢語、及び、低い地位、のため、他の学生達から広範に鼻であしらわれた。
 彼は、大学の哲学とジャーナリズムの両学会に加わり、陳独秀、胡適、そして、銭玄同(Qian Xuantong)<(注14)>といった人々の諸講義や諸ゼミに出席した。

 (注14)せんげんどう(1887〜1939年)。「言語学者、中国新文化運動の先駆者の1人とされる。・・・1906年に日本の早稲田大学に留学し、師範を専攻。1907年に東京で章炳麟の紹介で中国同盟会に入会。1908年に銭玄同と友人魯迅、黄侃など一緒に章炳麟に師事し、そこで古文経学、小学(文字の形体・音韻・訓詁について研究した。1910年に帰国、1913年に国立北京高等師範学校(1923年正式に国立北京師範大学と改称)の教員となり,1916年に教授となった。銭玄同は長い間に、国立北京師範大学と北京大学で経学、小学などの講義を担当し、同時に、北京師範大学の中国語の学部主任を兼任した。・・・1915年9月に,陳独秀<が>上海で「新青年」・・・を創刊した後に、銭玄同・魯迅・胡適・李大 Ω盒鵝周作人などの人々が、雑誌に熱心に寄稿した。銭玄同は文字改革と漢字の廃止を主張し、文字革命の宣伝に尽力し、新文化運動の中心人物となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E7%8E%84%E5%90%8C

⇒毛は、李大,世韻任覆、陳独秀からも改めて、そして更に銭玄同からも、日本についての知識の吸収に努めた、ということでしょう。(太田)

 毛の北京での期間は、<上海に移ることで、>・・・1919年春に終わった。
 <ここで、毛がパリに赴いた、との記述があるが、トンデモミスでは?(太田)>
 <しかし、>彼は、母親が危篤状態だったのに、<故郷の>韶山には戻らなかった。
 彼女は、1919年10月に亡くなり、彼女の夫は1920年1月に亡くなった。

⇒毛が支那の漢人としては珍しい、血縁者に冷たい人間であった証左の一つにあげられる挿話です・・ウィキペディア執筆者まで、かかる先入観からか、毛の実父なのに「彼女の夫」などと書いている!・・が、私は、毛が、努力して、漢人の阿Q性と結び付いていたところの、一族郎党命主義、を克服しようとしていた、という見方をするに至っています。(太田)

 1919年5月4日・・・<、五四運動が始まる。>
 長沙では、毛は、秀<(?(太田))>初等学校(Xiuye Primary School)で歴史を教え始め、その腐敗と暴力的な統治によって、一般に「有毒張(Zhang the Venomous)」と呼ばれた、段祺瑞支持派の湖南省長の張敬尭(Zhang Jingyao)<(注15)>に対する抗議運動を組織した。

 (注15)ちょうけいぎょう(1880〜1933年)。安徽派の軍人。「1918年・・・1月、段祺瑞の命により、張敬尭は南方政府(護法軍政府)討伐のため湖南省へ進軍し・・・3月27日、張は、段から湖南督軍兼省長に任命された<が、>・・・張敬尭の実効支配はわずかに長沙と岳陽一帯に限られ、直隷派や南方政府側の軍人たちも湖南省内各地に割拠する状況となる。しかも、張の統治手法は搾取的、かつ、拙劣・腐敗したものであったため、湖南省の社会各層の反発まで招くことになった。1920年・・・6月、南方政府軍が湖南省を奪回しようと反撃に転じ・・・た<等の>ため、張は戦わずして湖北省に逃走した。張は、その醜態故に段から罷免され、上海へ逃げ込んだ。・・・
 <ずっと後の>1932年・・・張敬尭は満州国に降る。1933年・・・には・・・華北で各種軍事・謀略活動に従事し<、>その一環で、張は密かに北平(北京)入りし、旧部下たちを組織して日本軍に呼応しようとした<が、>・・・5月7日、北平<で>・・・刺客に襲撃され、殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%95%AC%E5%B0%AD

 5月末には、毛は、<他の2名と共に>湖南省学生連盟(Hunanese Student Association)を共同創立し、6月には学生ストを組織し、1919年7月には、週刊の急進的な雑誌である、「湘水評論(Xiangjiang pinglun)」を公刊し始めた。
 支那の民衆の過半が理解できるであろう口語を用い、彼は、「一般大衆の大同盟(Great Union of the Popular Masses)」の必要性を訴え、非暴力的革命を実行することができるように諸労働組合を強化した。
 <当時は、>彼の諸観念はマルクス主義的ではなく、クロポトキン(Kropotkin)の相互扶助の概念に<依然として>大いに影響されていた。

⇒これは、毛がクロポトキンに影響されたというよりは、支那における日本的社会、すなわち人間主義社会、の樹立を夢見ていた毛が、自分の夢がアナキスト達が抱いていた夢とほぼ同じであることを発見し、クロポトキンらアナキスト達に親近感を覚えた、と解さなければならないのです。(太田)

 張はこの学生連盟を禁じたが、毛は自由主義的な雑誌である「新湖南」の編集長を引き受けた後、公刊を続け、有名な地方紙である「大公報<?(太田)>(Justice=Ta Kung Po)」に諸記事を提供した。
 そのうちのいくつかは、フェミニスト的諸見解を訴えたものであり、支那社会における女性達の解放を呼び掛けた。
 毛は、自身の強制的な見合い結婚に辟易させられたのだ。
 1919年12月、毛は湖南省でゼネストを組織することに助力し、若干の諸譲歩を勝ち取ったが、毛と他の学生指導者達は、張敬尭に脅されていると感じ、毛は北京に戻り、不帰の病に罹っていた楊昌済を訪ねた。
 毛は、自分の諸論考が革命運動の間で有名なレベルに達していることを発見し、張敬尭を打倒するための支持を募り始めた。
 新たに翻訳された、トーマス・カーカップ(Thomas Kirkup)<(注16)>、カール・カウツキー(Karl Kautsky)<(コラム#4812)>、及び、マルクスとエンゲルスによるマルクス主義文献・・とりわけ『共産党宣言』・・に遭遇し、彼は、次第に彼らの増大する影響を受けつつあったが、その諸見解において、依然として折衷的だった。

 (注16)1844〜1912年。社会主義に関する入門書を何冊か書いた。1911年版ブリタニカに寄稿している。
https://en.wikisource.org/wiki/Author:Thomas_Kirkup

⇒社会主義についての全体像をカーカップの著作で掴み、マルクス主義(マルクス・エンゲルス主義)の著作と(カウツキーによる)マルクス主義を批判し社会民主主義を提唱した著作を読んだ、ということから、毛沢東がマルクス・レーニン主義に一貫して批判的であったことが伺えるというものです。
 なお、言うまでもなく、これらの著作を、毛は、ことごとく、邦訳からの重訳で読んだはずです。(太田)

 毛は、天津(Tianjin)、済南(Jinan)、<孔子の生誕地である(太田)>曲阜(Qufu)を訪問した後に上海に移り、そこで、掃除夫として働き、陳独秀(陳獨秀)<(コラム#957、1859、2527、4980、5573、5883、7177、7572、7820、7989.8115)>に会い、陳がマルクス主義を採用したことについて、「私の人生の中における恐らくは枢要な時期において、私は深い感銘を受けた」、と記している。

⇒これは、マルクス主義・・マルクス・エンゲルス主義であってマルクス・レーニン主義ではないことに改めて注意・・に毛が最終的にかぶれた、ということではなく、支那において、人間主義的戦士たる武士(弥生人)を生み育成し、更に武家政権(弥生人政権)を樹立することが、共産党を作ることで可能になる、と考え、毛がマルクス主義を主体的かつ最終的に選び取った、と解さなければならないのです。(太田)

 上海で、毛は、自分の昔の先生である易培基(Yi Peiji)<(注17)>、彼は、革命家で国民党員であり、支持と影響力を増大させつつあった、と<も>会った。

 (注17)えきばいき(1880〜1937年)。「政治家・文芸家・教育者。北京政府で教育総長、国民政府で農鉱部長をつとめた。また、故宮博物院院長として文物を管理・保護した人物としても知られる。・・・
 日本に留学して学問の修得を続けた。また、このときに中国同盟会に加入している。帰国後の1913年・・・に、湖南高等師範学堂で国文教員となる。翌年、長沙師範・湖南省立第一師範学校において教員となった。このとき、毛沢東・田漢が易の教え子となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%93%E5%9F%B9%E5%9F%BA

⇒毛は、陳独秀以外にも人間主義社会日本に通暁している人物に会って、日本について更によく知ろうと努めるとともに、その人脈を利用して、将来自分についてきてくれるかもしれない優秀な多数の若者達に日常的に接することができる職に就こうと思ったのでしょう。(太田)

 易は、毛を譚延ガイ<(門の中に豈)>(Tan Yankai)<(注18)>将軍に引き合わせた。
 
 (注18)たんえんがい(1879〜1930年)。「中華民国の初代湖南都督。また、中国国民党・・・の指導者の1人であり、・・・1928年・・・2月、南京国民政府が常務委員による集団指導制から主席制に改められると、譚延<ガイ>が初代国民政府主席に任命された。同年10月、蒋介石が後任の主席となり、五権分立に基づく五院制が成立すると、譚は初代行政院院長に転じた。・・・<科挙に合格している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%9A%E5%BB%B6%E3%82%AC%E3%82%A4

 彼は、国民党の上級党員であり、湖南省の広東省との省境周辺に駐留していた諸部隊は彼に忠誠心を持っていた。
 譚は、張敬尭を打倒しようと企んでおり、毛は、長沙の学生達を組織することで彼に助力した。
 1920年6月、譚は彼の諸部隊を率いて長沙に入り、張は逃亡した。
 その結果としての省政府の再編の中で、毛は第一師範学校の予科部(junior section)の校長に任命された。
 高額の給与がもらえるようになり、彼は、1920年の冬に楊開慧(Yang Kaihui)<(注19)>と結婚した。

 (注19)ようかいけい(1901〜30年)。「女性革命家・政治活動家。中国共産党員で、毛沢東の2番目の妻として知られる。・・・楊昌済<(前出)>の娘。・・・
 北京在住の17歳の時、父のもとを訪れた毛沢東と知り合う。父死後の1920年・・・1月に長沙に帰り、ミッションスクールである長沙福湘女子中学選修班に入学した。直後に毛と再会・結婚し、毛岸英・毛岸青をもうける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E9%96%8B%E6%85%A7

⇒毛は、希望していた職に就けただけでなく、事実上の最初の結婚までできたわけです。
 この間、1914年には日本による対華21ヶ条要求があり、また、1919年からの五四運動やその過程での日貨排斥等があった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%9B%9B%E9%81%8B%E5%8B%95 前掲
わけですが、毛が一切反日的言動を行っていないことを銘記しましょう。
 爾後の毛の活躍の軌跡はご承知の通りです。(太田)


3 毛沢東と中共軍・長征・党軍

 (1)問題意識

 長征(1934〜36年)についての、これまでの、国民党軍に敗れたための敗走、という通説的見解
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%81
は、果たして正しいのだろうか。
 (長征の結果についての通説的見解に対しては、既に批判を加えている(コラム#8628)ところだが・・。)
 また、毛が、中国共産党による支那の権力奪取後もその軍を国軍ではなく党軍にとどめ置き、ポスト毛の歴代中共指導者達も、そのままにしている理由について、誰も碌に説明しようとしていないが、本当の理由は何なのだろうか。

 (2)長征

 国民党との戦いで劣勢に陥った機を捉え、親ソ派を一掃する目途が付き、中国共産党の指導者の地位をほぼ固めるに至っていたところの、毛のイニシアティヴで長征は始まった、と見たらどうか。
 朝鮮半島での足掛かりを失い、国内も平和が続いた結果、平安時代に、朝廷は平和ボケして軍事音痴になり、国軍もほぼ消滅してしまっていたが、この柔弱な先進地域たる畿内・西国から遠く離れ、蝦夷との戦いの後背地で、かつ、治安の乱れが見られたところの、東国において、日本の武士達が勃興した(・・私の言葉で言えば弥生人が復活した・・)、という日本史からヒントを得た、日本フェチの毛が、日本の東国ならぬ、柔弱な沿岸都市化地域から遠く離れた支那の西国の、蝦夷が住む奥州ならぬ、非漢人たるイスラム教徒が住む西域、の玄関口たる延安で、支那の武士達(弥生人達)を(日本とは違って、その歴史上初めて)養成・錬成しようとした、と見るわけだ。

 (3)党軍であり続ける中共軍

 (支那ならぬ)日本の(西国ならぬ)東国の武士達は、幕府を樹立し、その幕府が朝廷から権力を奪取するに至り、武士が官僚を兼ねるようになったが、その後も、国軍が編成されないまま、武力は幕府隷下の、いわば私兵たる武士達が担う体制が続いた。
 その結果、武士は(官僚を兼ねる形で)引き続き家業として代々受け継がれていくこととなり、江戸時代のような内外とも平和が長く続いた時代においても、軍人が国全体の平和ムードに流されてしまったり、官僚に比して軍人の地位が下がり、士気を低下させてしまうような事態を免れた、という日本史からまたもやヒントを得、毛が、中共軍を国軍にすることなく、党軍であり続けさせるとともに、党軍として引き続き当分の間維持することを遺訓とした、と見たらどうだろうか。
 (なお、皮肉を交えて言えば、私兵政権なのだから、習近平のような太子党が、政府/党(軍)、の地位やポストに恵まれてもいいわけだ。まあ、現在の、国軍を持たない日本でも太子党が首相をしているが・・。)

(付論1)毛沢東にとっての理想的軍人像

 1962年に職務中に21歳で(戦死ならぬ)事故死した一兵士の雷鋒(コラム#6077、6079)に注目した毛は、「軍人の思想的モデルとして」「雷鋒同志に学ぼう」運動を始めた。「3月5日は「雷鋒に学ぶ日」として学生たちが公園や街路の掃除、老人ホームを慰問するなどのボランティア活動の日となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B7%E9%8B%92 
 これは、毛沢東が、(日本の武士の継受形態である)中共軍人は、人間主義者として一般人の模範になるような存在たることがその必要条件であり、戦いのプロであることは、その上での十分条件に他ならない、ということを訴えた、ということであり、毛が、ついに、この時点で、中共の一般人の総人間主義化に着手したことを象徴する出来事でもあった、と思う。
 (ソ連における、戦争などでの英雄的な行為に対して贈られたソ連邦英雄やノルマを超過達成したスタハノフや銃器設計者や核兵器開発者等に贈られた社会主義労働英雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%8B%B1%E9%9B%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8F%E3%83%8E%E3%83%95
に比べて、雷鋒がいかに異質な「英雄」であるか、に思いを致すべきだろう。)
 なお、この雷鋒英雄化が、時期的には、大躍進政策(1958〜61年)の挫折、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96
つまりは、毛が、アングロサクソン文明の適度な継受であるところの工業化の高速実現の断念、の直後に行われたことに注目すべきだろう。

(付論2)朝鮮戦争・中越戦争への中共軍の参戦

 「毛沢東主席と[あの彭徳懐を含む]数名の最高幹部<こそ、1950年に始まった朝鮮戦争>参戦を主張していたが、林彪や残りの多くの幹部は反対だった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89#.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E4.BA.BA.E6.B0.91.E5.BF.97.E9.A1.98.E8.BB.8D.E5.8F.82.E6.88.A6
http://www.csmonitor.com/Books/Book-Reviews/2017/0106/The-House-of-the-Dead-recalls-heroics-horror-in-Russian-penal-colonies ([]内)
というのに、毛は反対を押し切って参戦させた。
 その理由について、対ソ抑止目的だったのでは、という私見を前に述べたことがある(コラム#8635)。
 もう一つの、というか、最大の理由として、養成・錬成してきた支那の武士たる兵士達を、旧日本軍や蒋介石軍と戦ったところの、ゲリラ戦でも政略・謀略戦でもない、近代戦争に初投入し、果たしてまともに養成・錬成されているかを見極めたい、そして、実戦を通じて更なる錬成度を達成させたい、ということがあったのではないか。
 (武士達が変身したところの日本軍は、日露戦争等の近代戦争を経験したが、中共軍は、その時点でまだ全く経験したことがなかった!)
 林彪らは、台湾侵攻が困難になりかねない、というのを反対理由の一つとしていたが、まさに、結果的には、その通りになった。
 つまり、毛にとっては、政略・謀略戦の延長でしかない台湾侵攻よりも、近代戦たる朝鮮戦争参戦の方が重要だった、というわけだ。
 (なお、しいてもう一つの理由を挙げれば、毛が米国(や英国)が大嫌いだったこと・・その米国が大好きな日本軍民を大虐殺したことに怒っていたはずであること・・から、米国らに一泡吹かせたいと思った、ということもあったのではなかろうか。)
 
 また、トウ小平が行わせた1979年の中越戦争について行われているところの、「ベトナム戦争で中国の支援を受けたベトナム政府が親ソ連となり、中国から援助された武器も使って、中国の友好国であるカンボジアのポル・ポト政権を崩壊させたことは、「恩を忘れた裏切り行為」であった。また、統一ベトナム成立後の社会主義化政策は旧南ベトナム地域の経済を握っていた華僑資本家層を圧迫しており、民族主義的反発も要因の一つだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89
といった説明にも、いかにも説得力がない。
 これは、トウによる、毛の顰に倣った、中共軍の無能化回避策だった、と見たらどうだろうか。
 新設された空軍を中心に旧日本軍によって錬成された中共軍は朝鮮戦争で北朝鮮の防衛に成功したけれど、中越戦争ではベトナムを懲罰するどころか世界に恥を晒しただけに終わったが、それでも、トウは、それなりに目的を達したと言えるのではなかろうか。


4 ポスト毛沢東--トウ小平の苦渋

●胡耀邦(1915〜1989年)

 トウ小平は、胡を、軽躁である↓と判断し、失脚させた。

 「1983年11月に訪日し、日中首脳会談で中曽根康弘<首相に対し、>・・・胡は、日本の青年3000人を中国に1週間招待するプランを披露して日本側を驚かせた。・・・1986年に中曽根首相が訪中した際、中国人青年を毎年500人ずつ招待することを提案し、胡耀邦プランに応えた。胡耀邦時代は、日中国交正常化後、日中関係が最も良好な時期だった。胡耀邦の親日政策が一つの要素だったと考えられる。胡は1985年の靖国参拝問題でもかなり柔軟に対応したし、1986年の第2次教科書問題でも抑制した態度をとった・・・

⇒胡は、毛/トウの日本文明総体継受路線の熱烈な継承者ではあったが、それを露わにし、いわば手の内を明らかにしたことでトウの怒りを買った、と見る。(太田)

 1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われ、ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁した。更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、外国人旅行者にもチベットを開放した。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回され<ることになる>
 1986年12月5日安徽省合肥市にある中国科学技術大学の学生によって、全国学生デモの口火が切られた。直接の原因は市の人民代表の選挙にあたっての学生代表の取り扱いについてであった。デモはたちまち北京、上海など全国に波及した。<少なからぬ>党員知識人が学生デモを積極的に支持した。小平はこうした事態に12月30日、・・・怒りを爆発させた。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%80%80%E9%82%A6

⇒そして、過早に日本型政治体制の継受を試みたことで、日本文明総体継受の順序を弁えていないことが明らかになった時点で、トウは、ついに胡耀邦を切り捨てた、ということだろう。(太田)

●趙紫陽(1919〜2005年)

 トウ小平は、趙を、欧米かぶれであると判断し、失脚させた。↓

 「<トウの>の子分の趙紫陽は、当時首相にして党書記長だったが、「私の最初の頃の改革に関してどう進めるかについての理解は浅く漠然としていた…私は、あらかじめ考えたモデルないし体系的な理念(idea)は念頭になかった」、と告白している。

⇒日本文明総体継受戦略音痴ぶりを趙紫陽が吐露したこんな話がトウに伝わらないはずがないのであって、以下の挿話を、このことを裏付けるものと受け止めた・・そう受け止めるのが正解なのか誤解なのかはともかく・・トウは、趙もまた切り捨てざるをえないと判断し、爾後、そのタイミングを測ることになった、と見る。(太田)

 この空白を埋めるために、趙の指示に従って働いていた中共人エコノミスト達は、マネタリスト達とケインズ主義者達、ノーベル経済学賞受賞者達、そして、重要な人物たるコルナイヤーノシュ(Janos Kornai)<(注19)>・・指令諸経済の諸欠陥についてのハーヴァード大のエキスパート・・等の著名な外国人達の助言を募った。

 (注19)1928年〜。「国有企業に対する国家の温情主義的管理のため、企業の予算制約が「ソフト」(資本主義は「ハード」)になり、企業は効率化を強制されないという社会主義経済の根本的病理を「ソフトな予算制約」という概念で確立した。・・・
 東欧革命・・・以降、一時は新経済自由主義に傾斜したが、まもなく軌道修正<した。>」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%82%A4-66776

 最上級レベルでの闘争の中で保守派からの頑強な反対があった・・・。
 1985年夏の決定的に重要な出来事(occasion)は、中共の改革派とコルナイ、米国人のジェームズ・トービン(James Tobin)<(注20)>、英国からのアレクサンダー・ケイルンクロス(Alec Cairncross)<(注21)>、を含む、外国人達によって、重慶から武漢までの間、豪華なクルーズ船の上で、一週間にわたる会議が開催され、議論が行われたことだ。

 (注20)1918〜2002年。ハーヴァード大卒、同修士・博士。長くエール大教授。1981年ノーベル経済学賞受賞。「ケインズの考えを支持し、マネタリストと財政・金融政策で論争」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%B3
 (注21)1911〜98年。グラスゴー大を経てケンブリッジ大卒で、ケインズの強い影響を受けている、実務経済学者。
https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Cairncross_(economist)

 シンクタンクの中国社会科学院(Chinese Academy of Social Sciences)の院長は、この会議は「能動的に中共の経済諸改革に影響を与える」のは確実だと述べた。
 その4年後の天安門抗議運動の弾圧が保守派の過激な反動と趙の不面目をもたらしたものの、1980年代に推進(develop)された諸理念(ideas)は引き続き政策を形成している。・・・」
https://www.ft.com/content/4e86b05a-c900-11e6-9043-7e34c07b46ef
(1月7日アクセス)

 「1989年4月、北朝鮮を公式訪問中に留守を預かった李鵬や保守派の誇張された報告を信じた小平が、『人民日報』に掲載させた「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」(四・二六社説)で学生運動を動乱と表現したことに対して論調を和らげるよう主張し、帰国後から小平や李鵬らと撤回、軌道修正を巡って論戦になった。
 5月3日の五・四運動70周年記念式典では学生たちの愛国心を評価し、翌5月4日にはアジア開発銀行理事会総会で「学生たちの理にかなった要求を民主と法律を通じて満たさなければならない」「わが国の法制度の欠陥と民主的監察精度の不備が腐敗をはびこらせてしまった」などと演説した。・・・
 15日にミハイル・ゴルバチョフの訪中を控えていたこともあり、小平は趙紫陽の要求する四・二六社説の論調を和らげることを考え始めたが、5月12日には翌日から学生が絶食を始めることがわかり、趙の穏健戦略は事実上破綻した。10日の政治局会議で対話路線をスタートした矢先の出来事で、ゴルバチョフ訪中までに天安門広場の占拠をやめさせることはできなかった。・・・
 趙は党中央を代表して学生たちに絶食を中止するよう求める文章を人民日報に掲載させたが効果はなかった。
 18日、小平が・・・戒厳令発令を決定し、・・・19日午前4時、趙紫陽は天安門広場で絶食を続ける学生たちの前に向かい、「我々は来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせながら約8分間、拡声器を手に学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。趙紫陽が公の場に姿を見せたのは、これが最後となった。・・・
 その後、6月3日から翌4日にかけて、デモ隊は武力弾圧された(第二次天安門事件)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E7%B4%AB%E9%99%BD

⇒そして、趙が、欧米にイカレていたゴルバチョフの路線を採ったと衆目に明らかとなったタイミングで、ついに、トウは趙を切り捨てた、ということだろう。(太田)

⇒帯に短したすきに長しの出来悪の二人の後継者に、トウは2度にわたって煮え湯を飲まされた、ということ。(太田)
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

太田述正コラム#8853(2017.1.14)
<2017.1.14東京オフ会次第(その1)>

→非公開