太田述正コラム#8637(2016.9.28)
<改めてフランス革命について(その8)>(2017.1.12公開)

 この革命は、1795年の、より穏健な憲法の執筆者達の一人である、ボワシ・ダングラス(Boissy d’Anglas)<(注17)>が、「我々は、6世紀分を6年間で生き抜いた」、と喝破したように、政治階級に対して破壊的衝撃を与えた。・・・

 (注17)Francois-Antoine, Count of Boissy d'Anglas (1756〜1828年)。プロテスタントの第三身分の家庭に生まれ、法学を学ぶ。法律家にして著述家。
https://en.wikipedia.org/wiki/Fran%C3%A7ois_Antoine_de_Boissy_d%27Anglas

 多くの政治活動家達は、テルミドール後の数年の間に、「絶望、恐怖、消耗、により」、公的生活から引退した。
 <そして、>テルミドール体制、及び、その後の総裁政府(Directory)<(注18)>体制、の政治家達は、その諸危険を恐れ、ジャコバン派の社会的・政治的平等を敬遠した。

 (注18)「1795年11月2日から1799年11月10日までのフランスの行政府である。国民公会の後、統領政府の前にあたる。5人の総裁が行政を担当し、二院制の議会が立法を担当した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E8%A3%81%E6%94%BF%E5%BA%9C

 爾後、投票権は、再び財産を持った男性達へ、と制限された。<(注19)>

 (注19)1795年憲法では、「普通選挙が廃止され、一定の税を納めている者にのみ認められた。これにより、成人男子700万人のうち有権者は500万人となった。」(上掲)

 リバタリアン的にして平等主義的な1793年憲法を擁護することは、「死刑に処される罪」とされた。・・・
 しかし、政治的安定は危なっかしいままだった。
 <そこで、>この体制にテコ入れをする目的で、総裁政府は、1799年のブリュメール(Brumaire)<(注20)>のナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)の軍事クーデタの環境整備になったところの、今や、フランス諸国境の外での諸戦争となった、拡張主義的軍事へとどんどん向かうこととなった。

 (注20)1799年11月9日(ブリュメール18)のクーデタ。「<末期の>総裁政府の実権を握<るに至>っ<てい>たシ<エ>イエスは政局を安定させるべく、強力な政府を求め憲法の改正を考えていた<がその目途がたたなかったので>・・・、エジプト遠征から帰還したばかりのナポレオンを利用した軍事クーデターを<行った。>・・・ナポレオン自身<としても、>エジプト遠征での敵前逃亡罪の嫌疑がかかっており、<この>クーデター<は渡りの船だ>った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC
 エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyes。1748〜1836年)。「1789年1月刊行の著書『第三身分とは何か』において「フランスにおける第三身分(平民)こそが、国民全体の代表に値する存在である」と訴え、この言葉がフランス革命の後押しとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9 
 
 著者にとっては、この瞬間にフランス革命は終わり、新しい、最終的には致命的となったところの、体制<(注21)>が始まった。

 (注21)統領政府(Consulate):「ブリュメール・・・のクーデターで総裁政府が倒された1799年から第一帝政が成立した1804年までのフランスの政府」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E9%A0%98%E6%94%BF%E5%BA%9C

 すなわち、このクーデタは、その「帝国的偉大さの諸夢が、彼らの革命を確保することよりもはるかに多くの犠牲をフランスの人々に負わせたところの」、一人の男を、権力の座に就けたのだ。・・・
 「フランス革命の重要性」という最終章の中で、著者は、この革命を変質させたものは何だったのか、という問いを発する。
 彼の解答は、見事なものであって、政治的、経済的、文化的、かつ感情的、なこの革命の総決算が提示される。
 革命家達によってもたらされた諸変化の多くは、この革命の歩みとともに、一時的なものとして消滅することとなった。
 (奴隷制廃止、離婚の権利、を含む)多くの諸改革は、後に、ナポレオン、または、復古されたブルボン王制、によって後退(curtail)させられたけれど、若干は、とりわけ、フランスの農民達を恒久的に解放したところの、荘園制の廃止、及び、サン・ドマング(Saint-Domingue)<(コラム#7275、7790)>の元奴隷達による、ナポレオンの彼らを再奴隷化しようとの諸試みに抗したところの、恐るべき数の人命を犠牲にした新しいハイチなる国の設立、は恒久的なものとなった。」(E)

3 終わりに

 期待に反して、大昔の高校時代に教わったフランス革命史叙述が、(ウィキペディア類を含め、この本の場合、若干、フランスのパリ以外の地域への目配りが増えた程度で、)それから半世紀近く経ったというのに、殆ど代わり映えしないことにびっくりするやらがっかりするやら、でした。
 私に言わせれば、フランス革命(やその後の西欧や中欧における、フランス革命を模した市民革命群)は、アングロサクソン文明と欧州文明が異質の文明であるとの認識に立ったところの、アングロサクソン文明の継受、凌駕の試み、という大局観抜きでは説明することなど、到底できないのです。
 そして、その継受には、直接イギリスからのルートと、間接的に、独立革命を経て成立した米国(というできそこないのアングロサクソン)からのルートがあったのであり、まず、それぞれのルートの具体的かつ詳細な解明から出発する形で、フランス革命史の再構成が図られるべきなのです。
 そのような試みに乗り出す歴史学者が、アングロサクソン側からも欧州側からも出現しないのには、それぞれのお家の事情・・アングロサクソン、就中イギリス側には狡猾さ、欧州側には矜持・・があることは分かるのですが・・。

(完)