太田述正コラム#8627(2016.9.23)
<改めてフランス革命について(その7)>(2017.1.7公開)

 1793年の危機におけるこれらの諸感情中最も重要だったのは恐怖だ。
 恐怖の中でも、とりわけ、(しばしば、筋違いの、しかし、そうは言っても強力な、)外からの、そして、内からの諸陰謀がこの革命を脅かしている、というものだ。
 かかる諸恐怖は、恐怖政治に訴えるという、革命家達の決定を掻き立てることに資した。・・・
 著者自身が、このところ、長年にわたって英語の本として出現したことがなかった、ロベスピエール<(注15)<(コラム#1256、1839、3321、3550、3739、6459、6883、6887、6889、7794、8615、8623、8625)>の最高の伝記<を書くこと>でもって、恐怖政治に頼ったことの背後にあった物の考え方についての新しい理解に少なからず貢献している。・・・

 (注15)マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien Francois Marie Isidore de Robespierre。1758〜94年)。第三身分出身。苦学。パリの有名高校時代には、「勉学のかたわらモンテスキューやルソーなどの啓蒙思想家の著作を愛読していたが、特にルソーについては自ら訪問してその謦咳に接するほどの傾倒を示している。法学士の学位と弁護士資格を取得して1781年に<同校>を<首席で>卒業した後は<故郷のアラスに>帰郷して弁護士を開業し、一時は司教区裁判所の判事も務める一方、1783年にはアラスのアカデミー会員、のち会長にも選出された。このころ発表した『刑事事件の加害者の一族もその罪を共有すべきか』という論文は高く評価された。1789年、30歳にして、三部会のアルトワ州第三身分代表として政治の世界に身を投じる。ジャコバン派内の山岳派に属し、ジロンド派内閣が推進した対外戦争に反対した。<また、>死刑廃止法案を提出したり、犯罪者親族への刑罰を禁止する法案に関わる等、当時としては先進的な法案に関わっ・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB

 ロベスピエールを、権力に狂った独裁者にして「恐怖の政治(Reign of Terror)」の計画立案者とする、草臥れた旧い見解に代えて、著者は、ロベスピエール自身の諸言葉によれば、「その贅沢が一日で一千人の生計を貪り食う」特権を持った金持ちの選良から「貧者及び無名の人」を守る者として<この革命を>始めた理想主義者、が次第に進化して行ったことを我々に示す。・・・
 1791年5月に、ロベスピエールは、彼が野蛮な処罰であると形容したところの、死刑の廃止の実現を試み、それに失敗した。
 こんな人間が、大勢の他者達と共に、この革命を防衛するために恐怖政治に転じたことを理解するためには、1793〜94年という、この革命にとって決定的な時期(critical period)の粉砕的諸効果を、その時期において政治階級全体に蔓延っていた諸緊張と結合した形で、我々は理解する必要がある。
 1794年7月(革命歴II年のテルミドール<月>(Thermidor))のロベスピエールの没落<(注16)>は、この革命の転機だった。

 (注16)テルミドールの9日のクーデタ。「1794年7月27日(フランス革命暦II年テルミドール9日)に起きた、フランス革命時における山岳派独裁の反対派によるクーデタである。これにより、ロベスピエールとその一派・・・が失脚、処刑または自殺した。・・・テルミドールの反動ともいう。テルミドールとは、革命時制定された革命暦で熱月を意味する。この事件により実質的にフランス革命は終焉したとされ<る。>。・・・
 <クーデタの前日の>7月26日(テルミドール8日)、国民公会でロベスピエールは、・・・「粛清されなければならない議員がいる」と演説をした。議員達はその名前を言うように要求したが、ロベスピエールは拒否。攻撃の対象が誰なのかわからない以上、全ての議員が震えあがった。反対派たちの結束はこれで決定的なものとなった。その晩、ロベスピエールはジャコバン・クラブで演説し、「諸君がいま聞いた演説は私の最後の遺言である」と発言した。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC

 それは、自分達自身の諸命がどうなるのかを恐れたところの、ジャコバン派の議員達の一集団・・後にテルミドリアン(Thermidorean)として知られるところとなった・・によって画策された。
 「決着を付ける(Settling scores)」という章の中で、著者は、テルミドールの後、どのように、恐怖政治を可能にした諸法が次第に破棄され、容疑者達が釈放されたか、を検証する。
 革命の新しい指導者達は、ジャコバン派の急進的民主主義の実験を取り消し、それを支えてきたパリにおける大衆運動を抑え込んだ。
 全員が元テロリスト達であったところの、テルミドリアンは、ロベスピエールが、それを躊躇した国民公会に押し付けたところの、「恐怖政治」に、ただ一人責任がある独裁者であった、という物語をでっち上げて責任を逃れるための身の証を立てた。
 <しかし、>テルミドールは暴力を終わりにすることはなかった。
 政治は、憎悪、恐怖、そして復讐への欲望、によって汚染されていた。
 殆ど30,000人にのぼる人々が、テルミドールの翌年の一年間に、ジャコバン派に対する諸報復の一環として亡くなった。

(続く)