太田述正コラム#8621(2016.9.20)
<改めてフランス革命について(その4)>(2017.1.4公開)

 (4)フランス革命史

 「『二都物語(A Tale of Two Cities)』<(注8)>の中で、チャールズ・ディケンズは、彼の感動的な神降ろし的叙述を、「それは最善の時であると同時に最悪の時でもあった」、から始める。

 (注8)「ディケンズの長編小説。・・・初版は1859年刊。フランス革命を背景に、ダーニーとカートンという2人の青年と、無罪の牢人の娘であるルーシーとの悲劇的な恋を描く。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%83%BD%E7%89%A9%E8%AA%9E

 概ね、彼は<この革命を>正しく捉えていた。
 <実際、>フランス革命の最初の10年間は無限の希望と打ち砕くような暴力の時だった。
 それは、未曾有の天変地異的諸出来事、運命の眩暈のような反転、そして、いかなる小説・・ディケンズのでさえ・・よりもさらに劇的な諸対照性、の時だった。
 それは、近代政治世界が発明された瞬間であり、フランス史においてのみならず、より広い世界の転換点、だった。
 人々がそのために戦ったところの、多くの諸権利は、我々自身が諸人生において期待するところのものだった。
 フランス革命を我々はどう理解すべきなのだろうか。
 どの瞬間、どのイメージ、がそれを最も良く表現しているだろうか。
 人権宣言は、その自由と平等への全ての人々の諸権利についての大胆な一連の諸声明によって、それにあたるのだろうか。
 それとも、高く不吉に佇立し、その刃が革命の諸敵の血を赤くしたたらせている断頭台がそれにあたるのだろうか。・・・
 著者は、新しく作られた国民公会が、「世界中で最も包含的で参加型の制度の下に」立憲王政を樹立した頃であるところの、初期の諸年を通じてこの革命の展開を追跡する。
 この革命は、熱意、一致団結、興奮、そして、気分を浮き立たせる楽観主義、の精神で始まった。
 バスティーユ襲撃一周年に開催された建国記念日(Festival of the Federation)<(注9)>において、国王は憲法を支持する宣誓を行った。

 (注9)「パリ祭・・・は、フランスで7月14日に設けられている、フランス共和国の成立を祝う日 (Fete nationale< francaise=フランス国民祭または国祭>) である。1789年同日に発生しフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃<(storming)>および、この事件の一周年を記念して翌年1790年におこなわれた建国記念日 (Fete de la Federation) が起源となっている。・・・
 「パリ祭」は日本だけの呼び名である。これは、ルネ・クレール監督の映画 Quatorze Juillet が邦題『巴里祭』として公開されヒットしたため」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E7%A5%AD

 革命は終わったように見えた。
 では、一体どうして、この立憲君主制は倒れたのだろうか。
 ・・・若干の歴史学者達は、無政府状態、暴力、及び、恐怖時代(terror)が必然的にもたらされた、と主張してきた。
 しかし、著者は、この立憲君主制が倒れたことに関し必然性などなかった、ということを示す。
 すなわち、それは、指導的な主唱者達による一連の誤判断的諸選択を通して出来したのだ、と。
 著者は、中軸的な章において、聖職者達(clergy)に対し、カトリック教会の信仰を維持するかこの革命への忠誠(allegiance)かの選択を強いたところの、この憲法への忠実の宣誓を押し付ける運命的な決定を探索している。

⇒フランス革命は、フランス人知識人達の中の主流派であったところのイギリスかぶれの連中が、先進国・・実はそうではなく、異文明国・・イギリスに追いつき追い越そうとして決行したものであり、16世紀にイギリスが英国教を作ってカトリック教会を追放したことに類することをより合理的、「近代」的に行おうとして、仏国教を作らず、カトリック教も追放せず、単に、聖職者達に新しいフランス立憲国家への忠誠宣誓を行わせた、ということだと私は理解しています。
 著者のこの新見解は、彼のフランス革命理解が、彼も共有しているところのイギリス人特有のアングロサクソン文明至上性意識を韜晦しようとするあまり、ねじ曲がってしまったとしか思えません。
 すなわち、私に言わせれば、この革命がフランスのカトリック聖職者達、ひいてはカトリック教会、と衝突するのは必然だったのです。(太田)

(続く)