太田述正コラム#8619(2016.9.19)
<改めてフランス革命について(その3)>(2017.1.3公開)

 (3)いわくつきの成果2例

  ア 荘園制

 「平等の追求は、荘園制(seigneurial system)の廃止と1789年の人権宣言(Rights of Man and of the Citizen)でもって始まった。
 アンシャンレジーム下で農民達が地主達に負っていた一連の精緻な諸税(dues)の中で最も重要だったのは、村の竈群、製粉所群、葡萄・月桂樹圧搾機群の独占によって補強されたところの、特定の荘園(seigneurie)内のすべての土地で生産された主要諸穀物に掛けられた諸賦課金(levies)だった。<(注6)>

 (注6)「荘園を構成する土地は、次の3階層に分けられた。
1.領地(demesne:領主の直轄地)は、領主により直接支配された地区であり、領主の一族・郎党の利益のための収奪が行われた。
2.農奴(serf又はvilleinという)の保有地は、領主へ納入する労役や生産物・現金といった貢納(保有地に付随する慣習とされていた)を支えるための土地であった。このような農奴による土地保有を農奴保有(villein tenure)という。詳しくは農奴制の項目を参照。
3.自由農民の保有地では、上記の様な貢納は免除されていた。反面、自由農民も荘園の裁判権や慣習に従属し、賃借に伴う借金を負わされていた。
 領主の収入源には、この他にも(法廷収入や借地の変更契約ごとの収入と同様に)領主の持つ水車・製パン所・ワイン圧搾機などの使用料や領主の森での狩猟権料・ブタ飼育権料などが含まれていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92
 「イギリスでは、農奴制の終焉は1381年の農民反乱(Peasants' Revolt)で始まり、1500年までには個人的身分としては消滅し、エリザベス1世が最後の農奴達を解放した1574年に完全に終焉した。・・・
 若干の例外的諸事例を除き、フランスでは15世紀までに農奴制は終焉した。
 しかし、近代初期のフランスでは、貴族達が、自由な農民達・・自分達がコントロールしていた諸土地で働いていた・・に対する荘園<主>的諸特権を<引き続き>維持していた。
 農奴制が公式に廃止荒れたのは1789年のことだ。」
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_serfdom

⇒フランスの農奴制に関する英語ウィキペディアの説明と著者による説明には微妙な違いがあることに気付かれると思いますが、農奴制消滅時期の仏の英に対する100年ないし300年の「遅れ」の背後には、両国の文明の違い、より端的には、両国における農奴なるものの実態の違い・・英の農奴はもともと自由人に近かったのに対し、仏の農奴は典型的農奴であった・・がある、というのが私の考えです。
 (かつての、イギリスと欧州の封建性を比較したコラムシリーズ(コラム#省略)等を参照。)(太田)

 著者は、この古めかしい制度の廃止を、「この革命がもたらした顕著な社会的変化の最たるもの」、と提示する。・・・
 <しかし、>最初から、革命的進歩は執念深い怒りに付きまとわれた。
 フランスの再生を目指すあらゆる建設的歩みの都度、破壊的影がついて回った。
 荘園諸独占の突然の終焉は、例えば、野生動物の殺戮をもたらした。
 イギリスの農学者のアーサー・ヤング(Arthur Young)<(注7)>は、アヴィニョン(Avignon)とエイ(Aix)の間を1789年に旅し、「この国の群衆全員が射撃をしている。プロヴァンス(Provence)のすべてのさび付いた銃が使われており、あらゆる種類の鳥々を殺している」のを発見した。

 (注7)1741〜1820年。イギリスの農業、経済、社会統計の著述家にして、農業労働者達(workers)のための活動家。無学歴。
 'Travels during the years 1787, 1788, & 1789 : undertaken more particularly with a view of ascertaining the cultivation, wealth, resources, and national prosperity of the Kingdom of France’( 1792)の著者として有名。
https://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Young_(agriculturist)
 (この本は、『フランス紀行―1787,1788&1789』というタイトルを付けられて翻訳されている。
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%B4%80%E8%A1%8C%E2%80%951787-1788-1789-%E5%8F%A2%E6%9B%B8%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%8B%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%82%B9-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0/dp/4588001183 )

 オルレアンの近くのガチネー(Gatinais)では、クレキー(Crequy)侯爵夫人が、地域の人々の一団が、この革命が貴族の狩猟諸特権を廃止したとの諸理由から、魚のいる彼女の諸池の水を干上がらせるのを見守った。
 すぐに、このような、機械主義的な怒りの諸表示はより血腥くなって行った。

  イ 奴隷制

 奴隷制は革命家達にとってもう一つの問題だった。
 著者は、奴隷貿易が18世紀におけるフランスの経済成長と切っても切り離せない関係にあったことを我々に思い起こさせる。 
 1785年には、フランスの諸港である、ナント(Nante)、ラロシェル(La Rochelle)、ルアーヴル(Le Havre)、ボルドー(Bordeaux)、マルセイユ(Marseille)、サンマヨ(Saint-Malo)、そして、ダンケルク(Dunkirk)から人間達の貿易に積極的に従事していた船々が143隻あった。
 ラロシェルの商人達は、奴隷制そのものの問題を無視しつつ、奴隷達に鞭を使用することは、「フランス国を際立たせているところの啓蒙及び人間性と両立しがたい」、として非難することで、彼らの人権宣言への支持と彼らの自利との折り合いを付けようとした。
 1790年には、革命家達は、植民地のロビイスト達の諸利害に敬意を表し、「そのことに直接言及しない形で(without giving things their real names)」奴隷貿易を維持することにした。」(A)

⇒フランス人達の奴隷制/奴隷貿易に対する偽善的姿勢は、米国人達にそっくりですね。(太田)

(続く)