太田述正コラム#8617(2016.9.18)
<改めてフランス革命について(その2)>(2017.1.2公開)

 「<1789年の>バスチーユ(Bastille)の陥落<(注1)>がリヨン(Lyon)の東の山地諸地域に到達する前にさえ、例えば、<現地の>領主館群(chateaux)は脅威を受けていた。

 (注1)「1789年7月14日にフランス王国パリの民衆が同市にあるバスティーユ牢獄を襲撃した事件である。フランス革命のはじまりとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A6%E8%A5%B2%E6%92%83

 すぐに、同地域の農民達は封建諸帳簿(registers)を燃やし始め、7月25日には12の村々からの800人の人々がブルグ(Bourg)近くのサン・サルピス(Saint-Sulpice)寺院(abbey)を攻撃した。
 僧達は自分達の回廊で首をつるされることをすんでのところで逃れ、寺院は放火された。
 この国の処々が、かかる急進主義を耐え忍ぶことになった。
 著者は、このような緒物語を素晴らしい詳細さでもって語るが、彼は、諸州の全員がこの革命の軌跡に大いに喜んだわけではない、と注意を喚起する。
 誰もが取り上げるのが、ロワール川(Loire)の南のヴァンデ(Vendee)地域における反革命反乱<(注2)>だ。

 (注2)ヴァンデの反乱。「フランス革命期に発生したカトリック王党派の反乱である。・・・王党派を白軍(白服)、共和国側を青軍(青服)と言って区別した。
 1793年3月、30万人募兵令に反発する農民たちの蜂起によって、フランス西部ヴァンデ地方を中心に一気に広がり、フランス革命戦争でも苦戦していた国民公会を危機に陥れた。しかし共和国軍が反撃に転じるとカトリック王党軍はロワール川の北に追い詰められ、1794年12月のル・マン、サヴネの戦いの敗北によって組織的抵抗は壊滅した。
 以後は少人数によるゲリラ戦に変化して長く不毛な戦いが続いた。・・・
 犠牲者は30〜40万ともいわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1

 それでもって200,000人が亡くなったが、著者は、それを「迷惑(trouble)しかもたらさなかった革命に対する生理的(visceral)拒否」、と適切に描写する。
 しかし、それは、単に、最もよく記憶された怒りと反応の表明に過ぎない。
 カトリックの信仰が包囲攻撃され始めた時には、フランス中で憤怒が生じた。
 政治的諸進展も、時に同じように不人気だった。
 1793年にスペインの反革命諸部隊がピレネー山脈(Pyrenees)を越えてやって来た時<(注3)>、サン・ロラン・ド・セルダン(Saint-Laurent-de-Cerdans)の町の人々の若干が侵攻者達に合流するほど、<地方は>パリっ子達の圧迫に不平たらたらだった。

 (注3)「1792年4月20日から1802年3月25日までの、革命後のフランスと、反革命を標榜する対仏大同盟との一連の戦争」に、「1796年10月以降・・・スペインが参戦した。」(1797年のカンポ・フォルミオの和約まで)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD%E6%88%A6%E4%BA%89

 著者は、これらすべての諸緊張や諸分断を追跡した上で、(遠くに所在する<仏>諸植民地ともども、)フランスをフランス革命に引き戻す。
 <また、>彼は、全ての中で最もとげのある問題を取り扱う。
 すなわち、この革命が何を意味したのか、そして、その遺産は何だったのか、という・・。
 <まず、>当初の衝撃の感覚が見事に捉えられている。
 <タテマエ上は>全ての人々の皇帝であったところの、オーストリアのレオポルト2世(Leopold II)<(注4)>は、「不正義、諸戦争、諸紛争、そして、諸逮捕、の終焉、といった無限の幸福が、この革命からあらゆる場所において帰結するだろう、と予言した。

 (注4)1747〜92年。神聖ローマ皇帝:1790〜92年。「1765年に父フランツ1世が死去した際、皇帝位はヨーゼフ2世が継承したが、トスカーナ大公国は帝国の領域に含まれず、また他のハプスブルク家領とは独立して統治することになっており、レオポルトが継承した。1770年に母マリア・テレジアの摂政が終わると、レオポルトはトスカーナにおいて啓蒙的改革を行った。チェーザレ・ベッカリーアの『犯罪と刑罰』の死刑廃止論に影響を受け、1769年に死刑の執行を停止し、1786年には<欧州>の国として初めて、死刑そのものを完全に廃止している。
 トスカーナは陸軍を持たず、海軍もメディチ家時代以来の小さい軍しかないが、レオポルトはそれをさらに縮小し、その余剰金を税率低減の財源とした。他には憲法の起草を命じたり(革新的すぎたため最終的には施行できなかったが)、種痘を制度化したり、1774年に精神障害者を病院に入れる法を制定したりした。
 1790年に兄ヨーゼフ2世が死去するが、嗣子がなかったため、レオポルトが帝位を継いだ。・・・
 レオポルト2世自身は進歩的思想の持ち主であったが、兄の強引な改革によって引き起こされた混乱を収めるため、農奴制廃止令の撤回、賦役の復活などの反動政策を行った。一方で質素な生活を好み、父から受け継いだ遺産を増殖させることにも成功した。・・・
 1791年も外交関係での緊張が続いた。フランスでヴァレンヌ逃亡事件が起こり、妹マリー・アントワネット夫妻を危惧したレオポルト2世は、脱出に成功した国王ルイ16世の弟アルトワ伯(後のシャルル10世)を介してプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共にピルニッツ宣言を行った。これはフランス人を興奮させ、フランス革命戦争になった。・・・
 在位わずか2年で死去し、帝位は長男フランツ2世が継承した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%882%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)

 彼にしても、それ以外の誰であれ、この革命がいかに混沌をもたらすかを殆ど感知しなかった。
 「改新的理想主義と暴力的懲罰の抗いようのない組み合わせ(irresistible combination, of regenerative idealism and violent retribution)」を、と著者は記す。
 だから、フランス人達が、いまだに彼らの革命をどう解釈すべきかについて議論が分かれているのは少しも不思議ではない。・・・
 1793年という禍機(crucible)における国民投票には諸投票所に記録的な数の人が押し寄せただろうと想像するかもしれない。
 そうではなかった。
 新憲法<(注5)>が選挙民達に開示されたこの時にあたって、有権者の投票率はどの地域においても50%を超えることはなかったのだ。

 (注5)「1793年憲法・・・は、1793年6月24日、フランス革命の最中、国民公会で採択された憲法典である。共和暦1年憲法・・・、あるいはジャコバン憲法・・・とも呼ばれる。
 人民主権、男子普通選挙制度、人民の労働または生活を扶助する社会の義務、抵抗権、奴隷制廃止などを認めた・・・憲法であり、フランス憲法史上初の人民投票で成立したが、内外の危機ゆえに平和の到来まで施行が延期され、ついに施行されなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/1793%E5%B9%B4%E6%86%B2%E6%B3%95

 ブルターニュでは、人々のわずか10%しか投票しなかった。
 それは、単に政治的部族主義の諸炎を煽り立てることを欲しないという感覚があったということなのか、それとも、純粋な疲れと混乱のせいだったのか<、は分からない>。」(D)

(続く)