太田述正コラム#8599(2016.9.9)
<ウィルソン流民族自決の愚かさ(その2)>(2016.12.24公開)

 (3)ロシア

 「大戦が終わるより前に、ロシアは、1917年にロマノフ(Romanov)王朝が転覆されることで分解していた。
 このロシア革命は、農民達であれ、知識人達であれ、穏健社会主義者達であれ、その他であれ、ソ連国家に敵対的であるとみなされた諸敵のいずれに対してもボルシェヴィキが宣戦したことによって、重なり合う諸紛争の連鎖を解き放った。
 赤軍は、一連の皇帝主義者達(Tsarist)の諸軍と戦い、後者はまた、内戦内の戦争でもって相互に戦った。<(注5)>

 (注5)ロシア内戦には立ち入らないことにするが、(介入した外国軍の分や下出のポーランド・ソヴィエト戦争の分も含まれているけれど、)その間の、戦死、処刑死数には夥しいものがあり、1921年の飢饉や1922年のチフス大流行による死者数も加えれば、数百万人が死亡したと考えられている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Civil_War

 それに加えて、赤軍は、ポーランド相手の悲惨な戦争を戦った<(注6)>。

 (注6)ポーランド・ソヴィエト戦争「第一次世界大戦後の1919年2月から1921年3月にかけてウクライナ、ベラルーシ西部、ポーランド東部を中心に行われたポーランドとボリシェヴィキ政府のあいだの戦争。ロシア革命に対する干渉戦争の一環ともとらえられる。・・・なお、実際に戦争が行われたのはソ<ヴィ>エト連邦成立(1922年)前である。・・・
 パリ講和会議の結果により、ポーランド分割以来のロシア国家による支配から独立を果たしたポーランドは、・・・かつて<の>ポーランド王国(ポーランド・リトアニア共和国)<の>・・・領域復活にかける願望を持っていた。・・・このため、講和会議で得られた領域をさらに東方に拡大<しようとした。>・・・・
 <ちなみに、>多民族平等国家を目指し大きな領土を求める左派リベラルのピウスツキが、ポーランド民族独占国家を目指し小さな領土を求める右翼民族主義のドモフスキに対して政治的に優勢となったのが前提となってポーランド・ソビエト戦争は開始された<もの。>・・・
 10月に停戦・・・1921年3月に講和条約が結ばれ、これによりポーランドはヴィリニュス(ヴィルノ)を中心としたヴィルノ地方などリトアニア中部とリヴィウ(ルヴフ)を中心としたガリツィア地方などウクライナ西部を併合し、東方領土を正式画定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E6%88%A6%E4%BA%89

 (4)ブルガリア

 「著者は、ブルガリアのような、小さな東欧諸国家の諸運命について、とりわけ巧みだ。
 (ウィンストン・チャーチルは、1918年以降に東欧をひどく破壊した諸紛争について、嘲笑的に「ピグミー達の諸戦争」と称した。)
 かつてオスマントルコ帝国の一つの州であったブルガリアは、1915年にドイツとオーストリア=ハンガリーの側に立って戦争に参入した。
 同国の軍は1918年<の休戦>に至るまで一度も敗北しなかったけれど、同国は、この戦争を破産し打ちひしがれて終えた。
 1912〜13年のバルカン諸戦争<(注9)>を含め、ブルガリア軍は6年間戦い続けており、157,000人もの死者を出していたのだ。

 (注9)「バルカン同盟諸国(ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア)と衰退しつつあるオスマン帝国との間で発生した第一次バルカン戦争(1912年10月-1913年5月)と、その戦後処理においてブルガリアと、ギリシャ・セルビアの対立から発生した第二次バルカン戦争(en:Second Balkan War、1913年6月-1913年8月)からなる。・・・
 <その背景だが、>1908年以降の青年トルコ人革命以来オスマン帝国は、[混乱<し、それに乗じて>・・・オーストリア・ハンガリー帝国がボスニアとヘルツェゴヴィナを併合したほか(ボスニア・ヘルツェゴビナ併合)、オスマン帝国の宗主権下にあったブルガリア自治公国が独立を宣言し、やはりオスマン帝国宗主権下の自治領であったクレタ島がギリシャへの編入を宣言するなど<起きる]・・・一方、すでに独立を達成しているギリシャ、セルビア、モンテネグロ、[<完全独立したばかりの>]ブルガリアの各国はこの地域での影響力拡大を虎視眈々と狙っていた<こと>、また「汎スラヴ主義」の大義のもと「南下政策」を展開するロシア帝国もこれら各国への支援に積極的であった<こと、があげられる>。・・・
 第一次バルカン戦争は・・・1913年の4月の末に・・・講和会議が・・・妥結し(ロンドン条約)、オスマン帝国はエーゲ海のエノスから黒海のミディアを結ぶ線以西のバルカン半島とクレタ島の領有を放棄した。・・・
 第二次バルカン戦争<は、>・・・8月<の>ブカレスト条約によってブルガリアはマケドニアの大半を喪失しさらに南ドブルジャをルーマニアへ割譲、エディルネをオスマン帝国に返還しマケドニア北東部(後に「ピリン・マケドニア」と呼ばれる)と、エーゲ海への出口となる西トラキアを辛うじて確保するにとどまった。一方で、セルビアは北・中マケドニア(後に「ヴァルダル・マケドニア」と呼ばれる)およびノヴィ=パザル地方を獲得。モンテネグロはセルビアと共にコソボ地方を分割した。ギリシアは南マケドニア・・・とテッサリアなどエーゲ海沿岸を獲得した。第一次戦争の段階で自治権を獲得していたアルバニアが正式に新独立国として発足した。
 この結果、最大の犠牲を払ったブルガリアはそれに見合う報酬、特にマケドニアに対する要求の殆どが叶わず大きな不満を残した。またオスマン<トルコ>はヨーロッパ側領土を一気に失い、国際政局での立場も大きく後退し危機感を募らせた。両国は接近を見せ、これが続く第一次世界大戦の一つの要因となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B9%B4%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E4%BA%BA%E9%9D%A9%E5%91%BD ([]内)

 オスマントルコの辺境諸地帯全域を通じた複雑な領域的再処理は、ブルガリア本体の外の紛議の対象たる領域に住んでいたところの、100,000人のブルガリア人達を、かくも大規模な難民危機に対処する能力のない国へと駆り立てられたのだ。」(B)

⇒「1905年に憲政を導入した日本が日露戦争で勝利したこと、その影響で1906年以降隣国ペルシアのガージャール朝で立憲革命が起こって国王の専制体制が終わりを告げようとしていたことなど、それらに刺激されて憲政復活の運動は勢いを取り戻し、<オスマントルコ>国内に憲政復活を目指す組織が再建されはじめるようになった。」(上掲)
 「日露戦争は当初は広く支持されたものの、既に戦争は失敗であり戦争の目的も不明確なものだという考えが人民に広まっていた。・・・<日露戦争最中で[1月2日の旅順陥落]直後の>1905年1月22日・・・、<サンクトペテルブルクで、いわゆる>「血の日曜日」<が出来し、ロシア革命(1905年)が本格化した。>・・・<その結果、[日露戦争の講和会議(8〜9月)、ポーツマス条約批准]後、例えば、制限>・・・選挙権を認める選挙法が1905年12月に公布され・・・ドゥーマ<(国会)>の最初の選挙<が>1906年3月に実施され<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%AC%AC%E4%B8%80%E9%9D%A9%E5%91%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89 ([]内)
 また、皇帝の絶対権力を制限を加えたという意味でのロシア最初の近代憲法が1906年4月に導入された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Constitution_of_1906
 以上からだけでも、日露戦争が、日本以外のロシアの諸隣諸国はもとより、ロシア自身にまで、欧米の政治制度の継受ブームを引き起こしたことが分かります。
 (よく言われているところの、日露戦争における日本の勝利が、世界の欧米植民地の人々の間で独立意欲を掻き立てた、という話にはここでは立ち入りません。)
 少し遅れて生起した1911年の支那の辛亥革命も同様の営みであった、と見ていいでしょう。
 しかし、これら諸国は、日本の「成功」の原因を極めて表層的なものに求めてしまっていたわけであり、そのこともあずかり、ペルシャ(イラン)も、オスマントルコ/トルコも、ロシアも、支那も、ことごとく、その後長期にわたる混迷の時代を迎えることになってしまいます。
 (このうち、最初に混迷の時代を抜け出すことができたのが支那であることは、皆さんご承知の通りです。)
 なお、第一次世界大戦は、日露戦争の敗戦によって、東と(日本の同盟国である英国が統治する)南への膨張が不可能になったロシアが、西への膨張に活路を見出そうとした結果勃発した、という見方もできるのではないでしょうか。
 日本こそが、20世紀以降の世界史の最大の駆動要因である、と思い始めている今日この頃です。(太田)

(続く)