太田述正コラム#8583(2016.9.1)
<チーム・スターリン(その8)>(2016.12.16公開)

 (7)エピローグ

「スターリンの死の後、「チーム」は、強制労働収容所からの100万人の囚人達の解放、西側諸国との外交の正常化、都市での生活諸水準の改善、及び、農民に対する賦課の軽減、警察による抑圧の緩和、ソ連の衛星諸国家の指導部における非ロシア化、そして、反ユダヤ・キャンペーン<(注32)>の撤回、を含む、主要諸改革に乗り出した。

 (注32)「スターリンは、少年時代からユダヤ人に対する嫌悪感を薄らながらも抱いていたが、・・・<それは>帝政時代のロシアではごくありふれた偏見の域を出ないものであった。・・・<ところが、>冷戦に入る頃にはそれまで国連でのパレスチナ分割決議賛成や米国に次ぐ建国承認やチェコスロバキアを通じた武器援助などで支持してきたイスラエルが西側陣営についたことにより、ユダヤ人に対して、ヒトラーと同質の強迫観念に取り付かれるようになり、ソビエト体制の転覆を企むシオニズムの手先・破壊分子としてソ連国内のユダヤ人を危険視するようになった。・・・<そして、>スターリンは最晩年の1953年、「ユダヤ人問題の最終的解決」と称してソ連国内のユダヤ人全員をシベリアおよびカザフスタンに強制収容する計画を実行する予定であったといわれる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3 前掲

⇒ここは、フィッツパトリック自身が語っているのですが、「西側諸国」に米国のアジア等における日本等の同盟諸国は含まれるのか、ソ連自身の指導部においてロシア人が少数派であった以上「非ロシア化」をどうして、「非白人化」としなかったのか、という疑問が生じます。
 彼女、言葉遣いの厳密性を余り気にかけない人物のようですが、これだけでも、歴史学者としては疑問符を付けざるをえません。(太田)

 ・・・彼らには、要は、これらの複雑な諸改革を推進していくための時間がなかった。
 そもそも、これら諸改革の必要性について暗黙のコンセンサスがなかったのだから、これらを迅速に実行に移すことなど不可能だった。・・・
 ・・・常任幹事会(Presidium)<(注33)>と呼ばれた、最も高い階梯における諸会議は、マレンコフ議長(Chairman)の下で民主主義的な流儀で開催された。

 (注33)最高ソヴィエト常任幹事会(Presidium of the Supreme Soviet)。議長の下に、ソ連の各共和国に1人ずつ割り当てられた15人の副議長、20人の常任幹事会員がおり、彼らは、最高ソヴィエトによって任命され、この常任幹事会は最高ソヴィエトに対して責任を負った。
https://en.wikipedia.org/wiki/Presidium_of_the_Supreme_Soviet

 諸提案、諸議論、及び一般審議(common deliberation)が、「集団的指導(collective leadershi)」のスタイルで大部分の諸決定の前に行われた。
 しかし、ベリヤの「一心不乱のペース」<(注34)>、攻撃的スタイル、及び、傲慢さ、はその他の人々をやきもきさせた(upset)。

 (注34)「ソヴィエト連邦下の非ロシア民族国家に対する、より自由な政策の実施・・・東ドイツの共産政権に、自由経済と政体改変を許可するよう・・・政治経済問題の意思決定過程における党組織の役割を軽くするよう画策した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%A4 前掲

 彼は秘密警察の長であって、彼の同輩達からでさえ恐れられていたからだ。
 その他の人々の同意を得てベリヤの逮捕を実現(organize)したのはフルシチェフだった。
 諸改革の一環としてベリヤ自身によって命ぜられたところの、諸尋問の際の拷問の廃止が概ねその原因だが、べりヤに対する諸尋問は、はっきりした結論を下せなかった。
 そこで、ベリヤは、でっちあげの諸嫌疑で有罪とされた。<(注34)>

 (注34)「ベリヤ<ら>・・・は、「英国の諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイである」と<された。>」
 それはともかく、「・・・モンテフィオー<ル(コラム#1775、1777、1779、1850、1866、2750、5033、5095、5802、8158、8166)>・・・は、ベリヤについて「強迫観念的な堕落行為をほしいままにする自身の力を利用した性犯罪者」と」しており、(スターリンの悪魔的醜悪さは別格として、)「チーム」の、最も唾棄すべき成員であった、と言ってよかろう。(「」内は上掲。彼の「性犯罪者」ぶりについては、詳細が上掲に出ている。)

 これは、スターリンによる諸粛清のスタイルを思い起こさせるものだった。
 <但し、>スターリン時代の慣行とは違って、彼の家族は殺されなかった。
 ・・・フルシチェフは、ベリヤの追放(removal)への自らの関与を自慢し続けた。
 実際、それは、彼自身の権力掌握に向けての第一歩だった。・・・
 フルシチェフが、後に、それらが実際には常任幹事会の共同の努力(common effort)に帰せられるというのに、「自由化と緩和(liberalization and relaxation)」の多くの諸業績が彼自身に帰せられると主張したのは銘記されるべきだ。
 1956年の党大会(Party Congress)中の、スターリンを決定的に公的弾劾したところの、フルシチェフによる秘密演説<(注34)>も、常任幹事会の成員達との審議の結果であり、個人崇拝(personality cult)の非難、おちう「レッテル貼り(branding)」はマレンコフ発案だった・・・。

 (注34)「1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、第20回党大会において、外国代表を締め出し(一部の外国共産党幹部には、事前に演説の内容を示されている。フランス共産党のモーリス・トレーズ、チェコスロバキア共産党のアントニーン・ノヴォトニー、朝鮮労働党の崔庸健、ベトナム共産党のチュオン・チン、そして中国共産党の朱徳である。・・・)、スターリンの個人崇拝、独裁政治、粛清の事実を公表した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E6%89%B9%E5%88%A4

 しかし、党大会での演説者(speaker)の役割を「受諾し」、大きなリスクを冒し、その後、諸効用を得、そして、ソ連の第一人者としての地位を固め、短期間の集団的指導<体制>を終焉させた、のはフルシチェフだった。」(G)

(続く)