太田述正コラム#8567(2016.8.24)
<欧米史の転換点としての17世紀?(その8)>(2016.12.8公開)

 「1931年の有名な論考の中で、ハーバート・バターフィールド(Herbert Butterfield)<(注23)>は、歴史のホイッグ的解釈と彼が呼ぶところのものについて描写した。

 (注23)1900〜79年。ケンブリッジ大学を卒業し、ケンブリッジ大学教授を務めたイギリスの歴史学者。
 (以下、なかなか良く書けているので、大幅に転載する。)
 「バターフィールドは、1949年の著作『近代科学の誕生』The Origins of Modern Science において、近代を画する時代区分点として、従来のルネサンスや宗教改革よりも、17世紀の近代科学の成立という事象をあて、これを産業革命にならって「科学革命」と呼称した。
 16世紀から17世紀にかけて、天文学上の発見を契機に従来の宇宙観・世界観が転換し、近代科学成立へとつながった。それまでの天動説から地動説へとパラダイムが転換し、力学上の大発見も相次いだ。バターフィールドの考えによれば、こうした「科学革命」の中心人物は、ニコラウス・コペルニクス(ポーランド)、ヨハネス・ケプラー(ドイツ)、ガリレオ・ガリレイ(イタリア)、アイザック・ニュートン(<イギリス>)の4名であった。地動説は、単に惑星位置の計算方法の変更にとどまらず、当時の宇宙観そのものに大きな影響を与えた。また、ガリレイによる自由落下運動の法則など力学的な発見は,中世における目的論的自然観(物体がそれぞれの目的に向かって運動するというアリストテレス的な自然観)に変更をせまるものであり、ニュートンによるニュートン力学の発表は、これまで「地上のもの」と「天上のもの」とを二分してきたキリスト教的世界観をくつがえした一方、多くの技術革新の原動力となって、18世紀における蒸気機関の開発、さらには産業革命へとつながった。
 実験など、誰にでも再現可能な方法によって自説の正しさを証明するという方法がとられはじめたのもまた、この時代からである。それ以前は経験知を軽視して論理をもっぱら重視する哲学的真理が追究され、科学的な証明方法や観察はあまり重要視されてこなかった。ガリレイは球を転がし、振り子を往復させ、読者に同じ実験を再現させることによって自説の正しさを証明したし、ケプラーはルドルフ星表を作り、天動説よりも地動説のほうがより精密に惑星の運行を計算できることを明示した。これらの手法は哲学にも大きな影響を与えた。
 バターフィールドは、『近代科学の誕生』のなかで「この革命(科学革命)は近代世界と近代精神の真の生みの親として大きく浮かび上がってきた」と述べ、科学革命の意義と歴史的重要性を説き、近代科学の成立が<欧州>だけでなく世界に当てはまる普遍的時代区分として、より妥当なものと考えた。この、科学革命を近代の嚆矢とする時代区分は必ずしも今日採用されてはいないが、「科学革命」ないし「17世紀科学革命」という用語そのものは、当該時代を象徴するタームとして多くの科学史家・一般史家に採用されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89

⇒バターフィールドによる、(彼より後のグレイリングを含む、)ホイッグ的歴史学者批判はあたっていると思いますが、17世紀を科学革命の時代と見ること、より一般的には、イギリス史を欧州史の一環に(恐らくは韜晦目的で)位置づけること、そのこともあってイギリス史にも発展的時代区分が存在するとすること、等から、私に言わせれば、バターフィールドもホイッグ的歴史学者達も、アングロサクソン文明の存在隠蔽歴史学者達、より端的に言えば恐らくはウソつき、ということでは同じ穴の狢です。(太田)

 それを、彼は、「多くの<イギリスの>歴史学者達における、プロテスタント達とホイッグの側に立って、過去における進歩の一定の諸原則を強調し、現在光栄化ではないとしても現在追認(ratification)、の物語を生み出すために、諸革命が成功を収めた場合に限ってだが、当該諸革命を称えるために執筆する傾向」、と定義した。

 ホイッグ的諸歴史書は、バターフィールドによって、例えば、1688年を「無血中産階級革命」と呼んだことで、ボイン川の戦い(Battle of the Boyne)<(注24)>を戦った全ての人々を恐らく惑乱させたことだろう、と批判された。・・・

 (注24)ウィリアマイト戦争。「1690年7月1日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では7月12日)、ウィリアム3世率いる<英・蘭等>連合軍と、退位させられたジェームズ2世率いる<仏軍とカトリックの>アイルランド軍の間に行われた戦い。アイルランドのボイン川河畔で行われた。<英・蘭等連合>軍36,000人とアイルランド軍25,000人が戦い、ウィリアム3世が勝利して<英>王位の保持を決定的なものにした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒この点に関しては、バターフィールドによる批判は無理筋ではないでしょうか。
 アイルランドは、イギリスからしてみれば、最初の、しかし、英領北米諸植民地等と並ぶ一つの、植民地に過ぎなかったところ、植民地ごときでいかなる「戦い」が起ころうと、本国内での流血さえなければ「平和」なのであり、名誉革命についても、イギリス本国内では流血がなかった以上は無血革命だ、ということでしょうからね。(太田)

 <グレイリングはまた、>宗教・・若干はイスラム教も蹴られてはいるが、概ねカトリシズムのことのように見える・・については、「前17世紀の習性的思考」の代表格で、「人間の精神の幼児性」の徴候的なものである、としている。・・・
 グレイリングが例示する知的進歩のお涙頂戴晒し者(poster boy)達のうちの若干は、気まずい諸問題を彼に突き付ける。
 デカルトとニュートンは、どちらも画期的な思想家達だったが、二人とも宗教的諸疑問を深く気にかけていたからだ。
 後者は、多くの時間を反三位一体神学<研究>に割いた。
 (ジョン・メイナード。ケインズ(John Maynard Keynes)は、ニュートンについて、そのオカルト的諸話題への関心を踏まえれば、「理性の時代の最初の人ではなく」、「魔術師達の時代の最後の人だ」と描写した。<(注25)>

 (注25)「1936年、ニュートンの・・・通常は錬金術に分類される内容が三分の一を占めていた<ところの>・・・未発表の著作が・・・競売にかけられ・・・、これらの文書の多くが経済学者のケインズによって落札され<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E7%A0%94%E7%A9%B6

 <そして、>デカルトにとっては、神が彼の方法論に関する思想の中心的存在だった。
 グレイリングは、「神的存在とその道徳的諸特質(qualities)<に関するのデカルトの論述について>はさておき、[デカルト]は、17世紀革命における、影響力の大きい人物だ」、と、ぎごちなく、この事実を迂回している。
 これは、「近代的」と見なされたいと欲しているのが誰であれ、宗教的感覚(feeling)を抱懐していることが致命的欠陥である、とグレイリングのように信じている場合にのみ問題になることだ。
 彼は、国王に対して戦った者達の多くが前兆と予言についての固い信仰(belief)によって動機付けられていたという事実を巧妙に回避(sidestep)しつつ、「王殺しと内戦によって、彼らはその時点で世界中の誰よりも速いペースで未来を議題に載せ(bring forward)た」、と17世紀央の英国人達について尊敬の念をもって語っている。
 仮に、彼らが近代のために戦っていたのだとすれば、彼らは、それを聖書を手に持ちつつ行ったわけだ。」(E)

⇒前にもシリーズでイギリス内戦を取り上げたことがあるので、ここでは詳細に立ち入りませんが、同内戦の英語ウィキペディアにおいて、内戦の背景の説明のところで、8つの背景のタイトルのどれにも宗教が登場しない
https://en.wikipedia.org/wiki/English_Civil_War
こと一つとっても、この書評子による、かかるグレイリング批判は、(少なくともイギリスにおけるイギリス歴史学の最新動向に照らせば、)不適切でしょう。(太田)

(完)